会社の夏休みが始まった。この休みの間にわたしは決めなければならないことが山ほどあった。まずは仕事のこと。そして子どものこと。
近所の産婦人科に電話をかけ夏季休業の期間を訊いた。わたしの休みと完全に同じだった。堕ろすなら夏休みの間に済ませたい。他の医院を見つけなければ。 そうは言いながら、わたしはまだ自分が妊娠していることに確信が持てずにいた。薬局に行き市販の妊娠検査薬を買えば済む問題なのに、それさえ怖くてできない。 この出血が流産しそうな兆候だというのなら、このまま放っておけば流れてしまうのかもしれない。そうであればいいと思った。ある意味、願ってさえいた。 わたしの夏休みをきちんと覚えていた安西君が、朝から大きな荷物を持って現れた。 「どうしたの?」 目を丸くするわたしに、ピースサインをしてよこす。 「合宿」 「合宿に行くの?」 「んなわけないじゃん。予備校の合宿があるって言って家を出てきた。1週間お世話になります」 ビックリした。何も聞いていなかった。 「そんな悪知恵、いつのまに身につけたの?」 わたしの厭味にも気づかず、彼は荷物を降ろす。 「そういうわけだから、オレ、合宿の間はこの家から一歩も出られないんだよね。オフクロがその辺ウロウロしてるから」 「軟禁状態ね」 わたしはタウンページを片付けた。 安西君が背後からわたしを抱き寄せた。 「これでやっと独り占めできる」 「そう? わたしはいつだって安西君のものだよ」 「違うよ。いつもはカイシャに持ってかれてる。でも、これからの1週間は24時間全部オレのもの」 くるりと回され向かい合う。唇が軽く触れる。ギリギリのところでつけては離すことを繰り返し、わたしは徐々にじらされる。 いつのまにこんなにうまくなったんだろう。 我慢しきれずにわたしの方から舌を差し入れる。彼の顔を両手で挟み、唇を吸う。鼻の頭に口づける。頬にキスする。耳たぶを噛む。首筋に下を這わせると汗の匂いがした。 ベッドに押し倒され、二人で転げまわる。わたしが上になる。彼が上になる。くるくる、くるくる。 「朝っぱらから」 そうつぶやいたときには、すでにふたりとも着ているものを床に落とした後だった。あわててカーテンを閉める。 「まだ生理?」 おりもの専用シートにうっすらとついた血痕を見て彼が問う。 「もう終わりかけ。大丈夫よ」 「よかった」 彼はわたしをキッチンに立たせると、後ろから首筋を舐めた。左手はわたしの乳房をつかみ、右手は叢の間をさまよう。 「すっごい濡れてる」 その巧みな指は貝を開き、雫をたぎらせた深みの中にどんどんと吸い込まれていく。 「声出さないで」 耳元でささやかれてハッとする。わたしはいつのまにか猫のような声をあげている。 じらすだけじらして、彼はなかなか入ってこなかった。 「入れてほしいの? 欲しいなら〈お願い〉って言えよ」 わたしは子どものようにイヤイヤをする。 すると彼の指使いはますます激しくなり、わたしはうめき声を漏らす。 「ほら、近所に聞こえるよ」 彼は左手でわたしの口を押さえる。耐え切れずにわたしは、その指先に喰らいつく。指の1本1本を口に含み、丁寧に愛撫する。彼の手を両手でつかみ、人差し指に軽く歯を立てる。そして言う。 「お願い」 彼のうめき声が聞こえた……と思った次の瞬間、わたしの中に彼が入り込んだ。腰を突き出した姿勢でわたしは、それでも一瞬冷静に「コンドーム」と思ったが、口にはしなかった。 「血がついてる」 抜いたペニスをティッシュで拭きながら彼が言った。 「処女だからね」 ふざけて返すわたしの頭をこづき、彼が「一緒にシャワー浴びようよ」と誘う。 わたしは少し驚きながらも、うんと頷いた。 お互いの手で身体を丁寧に洗いあった。洗いながら何度もキスをした。 「愛してるよ」 と言われ、 「わたしも愛してる」 と告げた。まるで大事な秘密を漏らすように。 その声は窓のないバスルームの中で反響し、まるでふたりしか存在しない世界のようにわたしたちの孤独を引き立てた。 このままずっとここから出たくないと思った。たぶん安西君も同じことを思ったのだろう。わたしたちはふやけるまでそこにいた。そして狭さにも負けず何度も愛し合い、昼過ぎに倒れこむようにベッドに戻った。そして夜まで眠り続けた。 姉に呼び出されて、以前姉が義兄と別居中に住んでいたマンションに行った。しかし、そこは以前の面影もないほど変わっていた。 部屋の中央にはドアと対面する位置に大きなデスク。その上にデスクトップ型のパソコンとプリンター。窓にはブラインドがかけられ、来客用のソファがでんと鎮座している。壁一面の本棚には、ファイルや本がぎっしりと収納されていた。 「オフィスらしくなったでしょう」 姉は満足そうに微笑んだ。 「玄関にかけるプレートと名刺も出来上がってるの。挨拶状の印刷も済ませたし、あとは宛名を書いて投函するだけ」 蓮ちゃんがキャッキャとはしゃぎながら走る。その存在に違和感を覚えるほど、この部屋はすっかり仕事の匂いを発していた。 「で、結論は出してくれた?」 姉は、わたしをソファに座らせ、ペットボトルのお茶をグラスに注ぐ。 「……まだ」 「リミットは先週末だったはずよ」 「ごめん、色々あって」 「こっちにも都合ってものがあるんだから、ダメならダメって早めに言ってほしいの。どう? うちの事務所に来てくれる気持ちは何割くらいあるわけ?」 「さあ……。五分五分くらい」 姉は「話にならない」という風に両手を挙げた。 「日曜日まで待つ。それで返事がなければ、別の人を探すわ。それでいい?」 わたしはコクンと頷いた。 「ところで、風ちゃん、痩せたんじゃない? 顔色悪いけど大丈夫?」 ギクッとした。けれど、顔には出さず「平気、平気」と微笑む。 「ちょっと夏バテしたみたい。食欲ないし」 「あら、そうなの? これから一緒に食事しようかと思っていたんだけど」 「今日は帰る」 部屋で待つ安西君を想った。短パンにTシャツ姿で、たぶん雑誌を眺めてる。それともテレビを見ているか。 夏休みに入って5日間、わたしたちはほとんど家から出ずに過ごしていた、何も身につけずに気まぐれに愛し合った。一晩中抱き合う日もあれば、真昼になっても起きない日もあった。外に出られない彼の代わりに、食料品などはわたしが買いに出た。それも、5日のうち2回だけだ。 今日、姉から電話がかかったとき、わたしは一瞬断ろうかと思った。姉のオフィスを訪れることを、ではなく、仕事のオファー自体を、だ。わたしの部屋はまるで子宮のように安らかで満たされていた。わたしと彼は双生児で、ふたりだけの世界を楽しんでいた。わたしたちは、どんな下界からの干渉も受けたくなかった。それがたとえわたしの将来を決める重要なことであっても、今は考えたくなかった。姉に会わずいれば、毎日のように電話がかかってくるのは明らかだったから、いっそのこと仕事を断ってしまおうと思ったのだ。 けれど、わたしはそうしなかった。ほんのひとかけらの未練が、わたしをここに向かわせた。この仕事を受ければ、姉のようになれる。いや、姉そのものになれるのだ。 「約束よ。必ず今週中に返事して」 念を押す姉を残し、わたしは部屋へと急いだ。 妊娠してるとして。 もし産もうとするならば、わたしはひとりで産まなければならない。たったひとりで。そうなれば、今更転職している場合ではない。収入が減るとわかっていて、子どもとふたりの生活を預ける気にはなれない。 では、産まないとすれば? それなら処置は早くしなければならない。こうしている間にも胎児はどんどん成長している。 処置さえすれば、転職しても何も問題はない。これまでと同じように生活が続くだけだ。しかし、本当に何も変わらないのだろうか。堕胎はわたしを狂気に走らせはしないか。それに、安西君に何も知らせずにわたしたちの子どもを殺して、それでもわたしは平気な顔をして彼と会えるだろうか。そして、そんな精神状態で、わたしは新しい仕事に向かえるだろうか。 そう考えると、産むにしろ産まないにしろ、姉の事務所に行くのは不可能なような気がした。 妊娠していないという可能性は、残念ながらほとんどない。食欲は日を追うごとになくなり、常に吐き気がするようになった。出血は、夏休み最初の日に安西君と抱き合ったあと止まった。もちろん生理らしいものも来ない。 立ち止まり、お腹に手を当ててみる。君はそこにいるの? そう心の中でつぶやいてみる。自然と涙が流れた。 (つづく) ブログランキング【Bloking】
by kimura-ian
| 2006-05-25 22:33
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