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ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.9

 よかったら今からお茶しない?
 メールがパソコンに表示され、隣の部署を振り返ると、西田さんが微笑みながら手を振っていた。
 3時過ぎの給湯室は女子社員であふれている。一足早く着いたわたしは、入り口でたじろいでしまう。
 「お待たせ」
 手に小さな紙袋を持った西田さんが姿を見せると、それまで給湯室でたむろしていた人々が一斉に後片付けを始めだした。
 「あら、いいのよ。みんな、ゆっくりしていって」
 西田さんが優雅な笑みを浮かべたけれど、彼女たちは「もうすぐ打ち合わせがあるので」「わたしは急ぎのワープロが……」などと口々に言いながら、湯飲みを洗い終え退室していった。それほど西田さんには威圧感がある。
 「貸切になっちゃったわね」
 西田さんは、持って来た紙袋からフルーツケーキを2切れ取り出した。
 「近所に新しくできたケーキ屋さんで買ってきたの。よかったらどうぞ」
 「いつもすみません」
 わたしは、お茶を淹れようと、会社の経費で常備してある玄米茶の缶に手をかけた。すると、西田さんが「こっち使って」と、自前のフォートナム・アンド・メイソンの紅茶缶を手渡した。
 「ねえ、知ってる? 研修部の荒本部長、早期退職するんですって」
 「え、ホントですか?」
 荒本部長というのは、うちの会社の中で最も高い役職についている女性だった。わたしが会社に入ったときすでに課長職に就いていて、新入社員研修では講師をしていた。たしか60歳の定年まであと数年のはずだ。
 「どうしてなんでしょう?」
 「さあ。噂だけど、どこかの女子短大の非常勤講師をやるらしいわよ。長年研修部にいて、人を教えることには長けているから。あ、そういえば、この間辞めた、ほら鳩山さんの上司だった部長ね、この秋から留学するらしいわよ。どこだっけな、オックスフォードかケンブリッジか、どっちかだったと思う」
 西田さんは、なんのためらいもなく鳩山の名前を口にした。
 わたしは、紅茶をそれぞれのマイカップに注ぎ、「いただきます」とケーキをほおばる。
 「そういえば」
 口の中でもぞもぞとするケーキを流し込むため、紅茶を一口飲んだ。
 「鳩山さん、離婚したって聞きました。西田さんはご存知でした?」
 「ええ、もちろん」
 西田さんは間髪いれずにそう言った。
 「あら小菅さん、知らなかったの? てっきり知ってるんだとばっかり思ってた」
 「いいえ、全然」
 「そう。ってことは、彼から連絡はないわけだ」
 「もちろんですよ。あるわけないじゃないですか」
 「わかんないわよぉ。男って、別れた女のことはずっと忘れられないらしいから」
 わたしは、給湯室の全面ガラス張りの窓から外を眺めた。眼下には児童公園があり、ベビーカーを押した母親たちが集っている。
 「西田さんは、お子さんをほしいとは思わないんですか」
 「お子さん? ああ……子どもね」
 日当たりのよい砂場で、男の子がひとり泣いていた。母親らしき人物が駆け寄り、しゃがみこんでなだめている。声はまったく聞こえないけれど、まるで音声の出ないテレビのように、人々はリアルに動いている。
 「わたし、子どもはできないの」
 西田さんは大きく口を開けて最後の1口を放り込んだ。
 「わたし、20代の初めに子宮筋腫を患って、子宮とっちゃったから」
 息を呑んだ。心臓がバクバク音を立てはじめた。
 「……ごめんなさい、知らなくて」
 西田さんは聖母のような微笑みでわたしを見た。これまでで一番あたたかな視線だった。
 「いいのよ。この話、あんまりしたことないから、社内でも知ってる人は少ないしね。結婚するときにだんなには話してあるし、お互い理解しあった上で一緒に暮らしてるんだから、何も問題はないのよ」
 いつも能天気に暮らしていると思っていた西田さんにそんな秘密があっただなんて。わたしは頭をガツンと殴られたような気がした。時々わたしは、人を軽く見すぎてしまう。
 「西田さん」
 わたしはカップを両手で挟み持ちながら言った。
 「これまでにだんなさん以外で好きになった人っています? あの、結婚後にっていう意味ですけど」
 「なあに、突然」
 廊下を誰かが通る足音が聞こえた。西田さんは給湯室のドアを閉めた。
 「小菅さん、結婚でもするの?」
 「とんでもない! わたしの話じゃないですよ。ただ姉が……姉がもしかしたら不倫をしているかもしれないと思って」
 「どうしてそう思うの?」
 「ただ……なんとなく」
 おとといあったことは話せないと思った。たとえ西田さんの秘密を知った直後だとしても。
 「お姉さんってご結婚されてるのよね。お子さんがいるものね。わたし自身はまだ結婚して3年だし、うちは子どももいないし、他の人に目がいくってことはないけど、お友達ではいるわよ。結婚して、子どもができて、それから恋をしちゃう人」
 「どうしてなんでしょう? なんで夫がいるのに他の人に恋しちゃうのかしら?」
 「ねえ、小菅さん。男の人の浮気ってどう思う? 奥さんがいるのに他の女性と恋愛関係におちいっちゃう人って結構いるでしょう?」
 ドキッとした。まるで耕介のことを指しているようだ。もしかして西田さんはわたしのことを知っているんじゃないだろうか。
 「……男の人は……よくありますよね。だから特別不思議には思いませんけど」
 「同じじゃないかしら」
 「え?」
 「同じじゃないかと思うのよ。男の浮気も女の浮気も。結婚したときには、一生愛し合います、って宣誓するけど、その後の何十年も同じ人を好きでいることってすごく難しいと思う。たとえ好きでいられても、他に好きな人をつくらずにいるというのは不可能に近いはず。不倫まではいかなくても、たとえば、好きな俳優とかタレントとかが現れるとするじゃない? 手の届かない人なら遠くから見つめてるだけでいいけど、手の届く範囲でそういった人が現れて、しかも相手も自分を好いてくれたとしたら……どう? それでも自分の気持ちに正直にならずにいられる?」
 西田さんは……西田さんはもしかしたら過去に不倫をしていたことがあるのかもしれないと思った。彼女が結婚する前に、結婚している男性と。
 ありえない話じゃない。彼女が結婚したのは36歳のときだ。それまで恋愛経験がなかったはずがないし、30歳を超えての恋愛で相手が未婚者である確率はきわめて低い。
 「わたしは、不倫もありだと思うな」
 西田さんはカップを流しに置きながら言った。
 「もちろん自分のだんなにされたら嫌だし、わたし自身もするつもりはないけどね」
 洗うのを代わろうとしたら、お茶を淹れてくれたからこれはわたしが、と、西田さんはわたしのカップも洗ってくれた。
 「30過ぎての恋愛について悩んでるのなら、お勧めは、年下の男の子よ」
 不敵な笑みを浮かべながら、西田さんは「じゃあねぇ」と手をひらひらと振り給湯室を出て行った。

 姉がいなくなったという連絡が届いたのは、姉と言い争いをしてから1週間後の日曜日の午後のことだった。
 珍しく義兄から連絡が入ったとき、最初わたしは、性懲りもなく仕事の依頼ではないかと期待した。しかし、その期待は一瞬にして砕かれた。
 「春花、行ってない?」
 いきなり話し始めた義兄の声は、心なしか上ずっていた。
 「ううん。お姉ちゃん、いないの?」
 「実は、昨日から帰っていないんだ。携帯も通じない」
 まさか、と思った。姉が無断で外泊するなんて。
 「蓮ちゃんは?」
 「一緒にいなくなった。昨日の夕方、春花が保育所に迎えに行って、そのまま……」
 初めて聞く義兄の心もとない声に、わたしまで不安な気持ちになる。
 「車は? お姉ちゃんの車はある?」
 姉は、義兄のフォルクスワーゲンとは別に、自分専用の軽自動車を持っている。
 「ない」
 「明日まで待ってみたら?」
 意識的に明るい声で言う。
 「まさか仕事を休むってことはないだろうし、きっと今日のうちには戻ってくるよ。実家の方には連絡した?」
 「いや」
 義兄はつぶやくように答える。
 「じゃあ、わたしの方からそれとなく訊いてみる。いたら連絡するね」
 義兄との電話を切った後、わたしは久しぶりに実家に電話をかけた。こちらからかけるのは何ヶ月ぶりだろう。
 「あら珍しい」
 開口一番、母はそう言った。
 「風ちゃんから連絡くれるなんてね。雨降らないかしら。ねえ、ちゃんと食べてるの? たまには帰ってきなさいよ」
 ここまではいつもと同じセリフ。
 しばらく母の愚痴や近所の噂話に付き合った後、それとなく姉について尋ねる。
 「最近、お姉ちゃんに会った?」
 「そうねえ、先々週の日曜日だったかしら、ちょっとだけうちに来たわ。相変わらず慌しくて、ものの一時間で帰っていったけど。蓮ちゃんは大きくなったわね。あなたの方がよく会ってるから知ってると思うけど。時々預かってるんでしょう? うちに預けりゃいいものを、なぜだか母親には遠慮するのよね。昔からそうだったわ、春花は。親の手をわずらわせないことこそ自立だと思ってるのよ。孫の世話くらいさせてくれたっていいのに」
 母の言葉に嘘はなさそうだった。姉は実家にはいない。
 わたしは延々と続く母の愚痴を適当なところで止めて電話を切った。
 翌日の昼休み、わたしは義兄の携帯電話に連絡を取った。義兄は、姉は会社を休んでいると言う。
 「自分でお義兄さんに連絡してきたの?」
 「いや。朝、事務所に連絡してきたらしい。蓮花の具合が悪いから、しばらく休むって」
 昨日よりか義兄の声は安定していた。姉の不在に慣れたのだろうか。
 「誰が……誰がその電話を受けたんだろう」
 思わずつぶやいた言葉に、義兄は「ん?」と聞き返した。
 「お義兄さんは誰からそれを聞いたの?」
 「事務所の若いヤツだけど?」
 「……加藤さん?」
 「うん。……ああ、風花ちゃん、会ったことあるんだよね。俺は今日は朝イチから他社で打ち合わせで、まだ事務所には行ってないからよくわからないんだけど、加藤が電話を受けたらしい」
厭な予感が背筋を這い上がった。
 「ホント、参るよ。春花が担当している仕事の打ち合わせ、少なくとも数日分キャンセルしなきゃならん。今週は締め切りもあるのに、いつ戻ってくるかもわからないし」
 義兄との電話を切った後、わたしは、蓮ちゃんの通う保育所に電話をかけてみた。
 「蓮ちゃん? ええ、来てますよ」
 電話に出た保育士が明るい声でそう告げる。
 「ああ、そうですか。それならいいんです」
 あたふたと電話を切ろうとするわたしに、保育士が「何か?」と不審そうに尋ねる。
 「いえ……、あの、姉から蓮花の具合が悪いって聞いていたものですから、休んでるのかなぁと思って。もし休ませずに保育所に行かせているのなら、わたしが早めに迎えにいってあげる方がいいのかもしれないと思って……姉は忙しい人ですから」
 とっさに考えた言い訳はどこか不自然だったが、保育士は一応納得したようだった。
 「蓮ちゃんのお母さんからは何も聞いていませんけど、蓮ちゃん、とっても元気ですよ。特に、早く迎えに来ていただく必要はないと思います」
 その日一日、わたしの頭の中は、まるで古い型の計算機のようにカタカタと鳴りっぱなしだった。
 姉が蓮ちゃんをつれて家を出た。事務所にも行っていない。蓮ちゃんはいつも通り保育所に通っている。……それって、どういうこと?
 もっとも想像したくない結論に達してしまう。
 もしかして加藤さんと一緒に暮らし始めている……?
 もしそうだとしたら、大変なことだった。今のところ加藤さんはいつもどおり出社しているようだけれど、いつかはばれる。そうなれば、姉も加藤さんも職を失うことになる。何より、義兄がどう出るか。あの人が心底怒ったときのことを考えると、真剣に恐怖を感じる。姉を刺したって不思議ではない。
 そこまで考えると、わたしの気持ちは急速に萎えてしまった。
 もう姉に振り回されるのはゴメンだ。姉が別居しようが、仕事を辞めようが、わたしには関係ない。あとは夫婦の問題だ。
 わたしは、一度はかけようとして表示した姉の携帯電話の番号を画面から消した。

                           (つづく)
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by kimura-ian | 2006-04-15 14:55 | 長編1
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