残業を終えた冬実は、この時間に唯一開いている通用口から会社を出た。警備員が「お疲れ様です」とかけてくれる声に、小さく会釈する。
「雪……」 小雨かと見間違えるほど小さな粉雪が、漆黒の夜空を舞っていた。 冬実は手袋をはめた両手でそれをすくうような格好をしたが、次の瞬間には、肩をすくめて歩き始めた。街のイルミネーションがまばゆい。 数歩歩いたところで、人影が動いた。黒っぽいコートのその人は、ゆっくりと冬実に近づいてくる。昔と同じように、少し背を丸めたような歩き方で。 「冬実」 冬実は足を止めた。ブーツのかかとがかつんと鳴った。 「……ずっとここで待っていらしたんですか?」 内藤はそれには答えず、「少し歩こうか」と言うと、ゆっくりと歩き始めた。 「誰かに見られますよ」 「こんな時間まで残ってるやつは少ないだろう」 「そうでもないですよ。最近は遅くまで残業する人もけっこういます」 冬実はあわてて後を追いながらも、なぜ自分はこの人の後を追っているのだろうという不思議な気持ちにとらわれていた。もう二度と会わないと決めたじゃないか。それなのに、なぜこうもあっさり? 「見られたってかまわないさ」 いったん足を止めて、冬実を見る。 初めて聞いた言葉だった。 冬実も足を止めて内藤に向かい、お互いに見つめ合うような格好になった。その時間はたぶんほんの一瞬でしかなかったはずなのに、冬実にはまるで永遠のような気がした。 2年ぶりに訪れたその店は、以前は薄暗く雰囲気のあるバーだったのに、いつのまにか居酒屋に変わっていた。 にぎやかすぎる喧騒と、明るすぎる従業員の声。 「……どうする?」 のれんに手をかけたままの姿勢で振り返る内藤に、「ここでいいです」と答えながら冬実は先に店内に入った。 明るい店内で向かい合って座ると、相手の顔がハッキリと見える。内藤の髪に白いものが混ざり始めたことに気づき、冬実は目を伏せた。同じように内藤も、冬実の姿に2年という歳月の残した足跡を見つけるのだろう。 「メールは読んでくれた?」 「ええ。でも、ついさっき気づいたところ。本社に戻るんですってね」 いつのまにか2年前と同じ口調になっていることに気づき、冬実は苦笑する。 「1月5日付け。経営企画部だ。君は笑うかもしれないけれど……部長になる」 「おめでとう」 正直、驚いた。歳は離れているとはいえ、付き合っていた頃はまるで同級生のように感じていた男が、いつのまにか自分の手の届かないところにまで行ってしまっている。 「乾杯しなくちゃ」 冬実はビールのジョッキを持ち上げた。 「君は今も……?」 「総務部よ。あいかわらずヒラ」 「そう」 その後はお互いに言葉少なく、淡々と料理をつつきあった。話すことはほとんどなかった。社内の人間の噂話を除けば、共通の話題などない。 2年前はいったい何を話していたんだろうと思う。恋に身をゆだねているふたりには、たぶん、言葉なんて必要なかったんだろう。 別れ際、内藤が差し出したカードを受け取らなかった自分を、後になって冬実は褒めてやってもいいと思うことになる。 「ここに滞在してるんだ。あさってまで」 ビジネスホテルのショップカードだった。 「……どういう意味?」 冬実の射るようなまなざしにたじろぎながら、内藤は差し出した手を引き戻すことさえできずにたたずんだ。 「意味なんてないさ。ただ……」 「行かないわよ」 重ねるように告げる。 「行かないわ。それにもう会わない。もちろん社内で顔を合わせることはあるでしょうけど、あくまで1社員として<内藤部長>に対峙するだけよ」 沈黙が続く。遠くで救急車のサイレン音が聞こえる。 「……わかったよ」 ようやくカードをポケットにしまうと、内藤はため息をついた。 「君にも立場があるだろうしね。恋人はいるのか?」 「……いるわ」 冬実は少しためらった後、挑むようにそう告げた。「それから、わたしの立場は関係ない。問題なのは、あなたの立場じゃなくて?」 「僕の立場か」 そう言うと、内藤はフッと笑った。皮肉めいた笑いだった。 「君にさんざんつらい思いをさせたことは認めるさ。その成果がコレだ」 「部長になれたってことね」 「それもある。しかし……いや、いい。今さら何を言っても遅いんだろう、たぶん」 自嘲的に肩をすくめると、内藤は「じゃあ」と片手をあげた。 後姿が、思いのほか疲れて見えて、冬実は一瞬泣きそうになる。 「さよなら」 行きかう人が振り返るほどの大きな声で、冬実は告げた。 さよなら。 2年前にそう告げたときよりも、胸の奥がちくりと痛んだ。 雪はもう、やんでいる。 深夜に帰宅して、風呂をくんでいる間に、パソコンを立ち上げてメールをチェックする。冬実の日課だ。 初期画面が現れるのとほぼ同時に、携帯電話からメール着信音が聞こえた。 メールの差出人はコージ。 本文は読まずに、パソコンに向かう。こちらにもコージからのメールが届いていた。送信日時からして、おそらく同じ内容だろう。 ここ数日、冬実がスタバを訪れていないこと、そして、冬実がコージからのメールに返事を書かなかったことを遠まわしに責めている。 「まいったなぁ」 ひとりごちながら、部屋がようやく暖まってきたので着たままだったコートをようやく脱いだ。居酒屋特有のニオイがする。ハンガーにかけて、ニオイをとるスプレーをまき、キッチンで熱いお茶を入れて、ふたたび画面の前に戻る。 さらにメールを読み進めると、意外なことが書かれていた。 12月23日に行われるあるミュージシャンのコンサートに一緒に行かないか、というのだ。 「……は?」 一瞬、開いた口がふさがらなかった。どういうこと? 前回は、就職にかんする相談めいた内容のメールを送って寄こした。冬実をどんな風に勘違いしたのか知らないが、それはそれでビックリした。しかし、今回はさらにわけがわからない。 仕事の話だけじゃなく、恋愛までメンドウをみてくれとでもいうのだろうか。 ご丁寧に、メールの最後には自己紹介まで書かれてあった。経営学部の3回生だということ、出身地、特技、好きなもの、将来の志望、彼女いない歴……。 「20年?!」 ……ということは、彼は二十歳で、かつ、一度も女性と付き合ったことがないということになる。 「ちょっとぉ……たのむよぉ」 10歳も年下の男の子にからかわれているのか? と思うと、涙が出てくる。と同時に、笑いもこみあげてきた。 「この子、バカかも」 本当にバカなんだったら、どれほどバカなのか見てみたいと思った。スタバで接客しているだけではわからない、コージの素顔。 きっと話題なんてかみ合わなくて、白々しい時間をもてあますんだろうなぁ。 念のため手帳を見てみたが、その日はスクールの授業も休みだ。それに、3連休の初日でもある。 「ちょっとくらい羽目をはずしたって、いっか」 どうせ次の試験まではまだ時間がある。クリスマスに予定があるわけでもない。一晩くらい遊んだって、取り戻せるだろう。 頭の中でそう計算しながら、心のどこかで内藤を思っている自分に冬実は気づいていた。 気づいていたからこそ、その思いを拭い去りたかった。 彼はわたしを棄てた人だ。わたしを棄てて家庭を取った人だ。 冬実は、コージのメールに返事を書き始めた。 <高山光司さま お返事が遅くなってごめんなさい。(前回のメールのことです。) コンサートへのお誘い、ありがとう。 こんなオバサンでいいんでしょうか。 23日は予定が空いていますので、ご一緒させてください。 待ち合わせとか、またご連絡くださいね。 如月冬実> 我ながら、あっさりしたメールだと思った。素っ気ないとすらいえる。 でも、相手の出方がわからない以上、これで充分だろう。 送信ボタンを押すと、冬実はあわててバスルームに向かった。 時計の針はすでに25時をさしている。 (つづく) ブログランキング【Bloking】 ※この作品はkyotofrさんとの連作です。 第8章は http://kyotofr3.exblog.jp/266035/ をご覧ください。
by kimura-ian
| 2006-01-07 16:45
| 連作(合作)
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