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《お知らせ》 しばらくお休みします

※これは小説ではありません。 


いつもご愛読ありがとうございます。

しばらく続けてきたこのブログですが、長編掲載が終了したところで、しばらくお休みをいただきたいと思います。

このブログを始めるまでは、ただ自分の気持ちのままに、書きたいことを書きたいように書いてきました。
しかし、みなさんに読んでいただいたことで、“人様にお見せする”ということを、多少なりとも意識できるようになってきたように思います。
読んでいただくからには、今のままではいけないな……というのが、今の正直な気持ちです。

今までのやり方を改めて、いちどリセットしてみたい。

いつかまた再開するかも知れないし、まったく別の場所で再スタートするかもしれません。
ご縁がありましたら、いつかまたどこかでお目にかかりましょう。

本当にありがとうございました。

                                    kimura-ian
# by kimura-ian | 2006-07-10 00:33

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.17 最終回

 カーテンの隙間から透明な日差しがキラキラと輝いている。まだじっとしていたい。温かな毛布に包まれて意識が遠くなる。
 いかん、いかん。
 布団を跳ね除けると、わたしは真っ先に温風ヒーターをつけた。
 室内でも吐く息は白い。暦の上では春になったはずなのに、外ではやはり冬物のコートが必要だった。
 クローゼットの中から紺色のパンツスーツを取り出す。よく見れば薄く細かい縦じまが入っているこれは、年明けのセールで買ったものだ。わたしの勝負服。知的で清楚な雰囲気が出るように、中に着るブラウスは水色にする。
 着替えを済ませて顔を上げると、先週買ったばかりの白いスプリングコートが、出番はまだかとわたしを見下ろす。よーし、今日こそ着てやろう。下にババシャツを着れば、なんとか寒さもしのげるだろう。
 会社の制服が廃止されて3ヶ月になる。今年からは経費削減のため、新たな制服の購入が中止されたのだ。制服を着続けたい者は着ても構わない。けれど、劣化しても取り替えてはもらえない。
 制服の廃止と同じ頃、わたしは異動になった。広報宣伝部。
 異動した当初、広報宣伝部には若手社員がほとんど残っていなかった。そもそも高齢化が進んでいた部門ではあったのだが、早期退職の勧奨が行われた結果、30歳前後の中堅社員は、皆辞めるか、営業部に異動させられていた。残ったのは、入社して3年の男性社員、あとは派遣会社から来ているデザイナーが1名。
 「一体、わたしに何ができるのでしょう……?」
 疑問をそのまま口にする。その頃、これまでのキャリアとはまったく関係のない仕事を与えることによって退職を迫ろうとするいやらしい手法のリストラが行われていたこともあり、わたしは自分もその対象になったのだとばかり思い込んだ。
 しかし、それは違った。わたしの個人データファイルの片隅に、入社以来広報の仕事を希望しているという記載を見つけた上司が、広報宣伝部の部長にかけあってくれたのだ。
わたしに与えられたのは、社内報の編集業務。加えて、営業部門と連携して、セールスアシスタント養成のための研修ビデオの製作だった。
 わたしが来るまではそれぞれの業務にひとりずつの担当者がいたというから、わたしはふたり分の仕事を請け負ったことになる。残業代は月に20時間分までしか出ない。わたしは毎晩9時ごろまで残って働いたので、本来であれば残業代はその3倍以上あったけれど、すべてサービスだ。それでも充実している。毎日がキラキラと輝いて、朝目覚めるのが楽しみでさえある。
 会社に着くと、わたしはまずパソコンを立ち上げる。メールをチェックし、今日行われる会議の資料の最終チェックを行う。
 オフィスにはまだほとんど人影がない。この時間がいちばん快適だ。
 コーヒーを片手に準備を整えると、隣の人事部に西田さんの姿が見えた。彼女も私服組だ。彼女は、以前はあれほど割り切っていたのに、新しい仕事に就くとぐんぐんとやる気を見せ、上司も驚くほどの成果をみせた。リストラが進められ、退職者が増えているにもかかわらず、それほど混乱が起きていないのは彼女の功績が大きいのではないだろうかとわたしは思っている。
 頑張りましょうね。
 心の中でエールを送り、わたしはまたデスクに向かった。

 わたしは結局、義兄の会社には入らなかった。なぜかと問われれば、即答できるような答えは持っていない。ただ、勘のようなものが働いたのだ。あの時、わたしはどこに逃げても満足はできなかっただろう。わたしの憂鬱の原因は、わたし自身の中にあったのだから。
 義兄は業界紙でコピーライターを募集し、不況の波はかぶりながらも、それなりに景気よくやっている。姉は、独立したものの、思ったように仕事は入らず、多少苦労しているみたい。
 「事務所の経費を支払ったら、手元に残るものはなし」
 と苦笑していたけれど、最近はインターネット上でコラムを書きはじめたり精力的に活動している。そして、驚いたことに、姉はまた妊娠した。今はまだつわりの時期だけれど、出産当日まで仕事をしてやると張り切っている。
 耕介とはあれ以来会っていない。きっと幸せにしているのだろう。連絡がないことこそがそれを証明しているように思える。
 そして、安西君。
 彼からの連絡は一切ない。まるで神隠しにでもあったかのようにわたしの部屋から消えてしまったあの日からずっと、彼は不在を続けている。今となっては、彼と過ごした時間は実は夢で、最初から彼は存在しなかったのではないかとさえ思えてくる。
 どちらにしても。
 わたしはもう彼を待たない。時折思い出して、ため息をついたり、ほんの1滴涙を流したりはするけれど。
 実を言うと、一度だけ、安西君の家のそばまで行ったことがある。8月の終わりの日の夕暮れだ。
 彼の家から数十メートル離れた地点にたどり着くと、家の門扉の前に女性がひとり立っているのが見えた。じょうろを片手に花に水をやっている。
 お母さんだろうか。白のパンツに水色のニットを着ている。ゆるくアップにした髪はきちんとカールされ、まるでハイソな主婦向け雑誌に出てくるモデルのようだった。思ったより若くて驚いた。 見た目にはわたしとそれほど違わないような気がする。なんだかひどくショックだ……。
 その女性と一瞬目があった。わたしは軽く会釈をして通り過ぎる。どこかで犬が狂ったように鳴いた。
 それからだ。わたしの日常が動き出したのは。色彩を持って輝き出したのは。

 今のわたしの毎日は、スーツと資料とパソコンと、そして休日の不動産めぐりでできている。
 そう、いよいよこのアパートを引き払い、自分の城を持とうと決めたのだ。いつまで今の会社にいられるかわからないけれど、30代を快適に過ごすために、そして誰かに依存してしまわないために、わたしはわたしを守る砦を築く必要がある。1DKか2Kくらいで南向き。できれば広めのバルコニーがあるところ。通勤に便利で、ファミリー層よりもわたしと同じように独身で勤めている人たちが多く住むようなマンションを求めている。
 週末、不動産屋に向かう途中で川沿いの遊歩道を歩いた。いつのまにか桜がつぼみをほころばせていた。
 「そっか、もう3月も終わりだもんなぁ」
 ひとりつぶやいてそっと見上げる。今日のこの天気だと、一気に五分咲きくらいにはなってしまうかもしれない。年々早くなる桜の開花時期。
 見せてもらった部屋は、1軒目は日当たりがいまいちなのと騒音がうるさいことで却下。2軒目は、日当たりも間取りも申し分なかったけれど、2階だということで治安の面で不安があり、お断わりさせてもらった。
 最後に訪れた部屋に一足入ると、わたしは「うわぁ」と声をあげた。
 「すごいでしょ」
 1日付き合ってくれた担当者が、自信ありげに微笑む。
 玄関からまっすぐ伸びた廊下の先に、ベランダ越しの桜が見えた。
 「ここは4階ですからね、ちょうど入居される頃には満開の桜が見られますよ」
 ベランダの幅は広く、カフェテーブルを置いてお茶でも飲めそうな雰囲気だ。
 「キッチンは対面式ですし、ほら、キッチンからも桜が見えるんですよ」
 リビングは板張りで、続く六畳の和室には引き戸がある。これなら姉や蓮ちゃんだって泊められる。
 「玄関横の洋室は、北向きなので多少暗くはありますが、寝室として使われるのでしたらかえっていいでしょう」
 「ええ、わたしもそう思っていたところです」
 全体的に新しい造りだった。
 「きれいでしょう」
 わたしの考えを見透かしたように担当者が言う。
 「実は、本当に新しいんですよ。新築でね、新婚さんが住まれていたんですけど、ご主人のお父様が亡くなられて、急遽家業を継がれることになりまして。で、買ったばかりのこのマンションも手放さざるを得なくなった……という経緯なんです」
 「お気の毒ですね」
 「ほんとに。でも、まあ、その新婚さん自身は、あまり未練はなかったようです」
 「あら、どうして?」
 何か住むのに不都合なことでもあるのだろうか。
 「子育てには不向きだってことに気づかれたんですね。こちらのベランダから、桜の立っている場所をちょっと見ていただけますか」
 ベランダに出て外を見下ろす。緑の木々の間に、ブルーのシートがかすかに見える。
 「ここからだとほとんどわからないんですけど、この公園、浮浪者が寝泊りしているんですよ。だから、せっかく公園があっても子どもを遊ばせられない。それに、マンションの1階の飲食店も気に入らなかったみたいです。分譲した時点ではまだテナントは決まっていなかったのですが、彼らが入居した後に入ったのが……」
 「ああ、コンビニとカラオケ店と焼き鳥屋、でしたっけ?」
 「よくチェックされてますね」
 担当者が苦笑いした。
 「コンビニがあるのは便利ですけど、自分の家のそばにあるのはちょっと、とおっしゃられるお客様も多いんです。特に、お子様をお持ちの方はなんかは。それにカラオケ店でしょ。外に音が漏れることはないんですけど、なんとなく厭みたいで」
 「焼き鳥屋はアルコールを飲む人であふれるし、においがするものね」
 わたしが話の後を継ぐと、「はい」と担当者はうなだれた。
 「わたしは別に構わないけど」
 わたしは元気よくそう言った。
 「コンビニがあると便利だし、カラオケは好きだし、焼き鳥もアルコールも大好きだから」
 担当者の顔がパーッと明るくなる。
 「でもね、予算内に収まるのかしら? それが心配。物件はすごく気に入ったんだけど、もう少し考えさせてくれる?」

 家に帰り、これまでに集めた住宅情報誌やチラシをもう一度じっくり眺める。何度眺めてもやっぱり今日見た物件が忘れられない。
 ベランダから桜を眺めながらビールを飲んでみたい。
 ちっぽけな願望だけれど、そういう未来なら想像できる。容易に。
 インタホンが鳴った。
 宅配便だろうか。
 最近注文した化粧品はあったかしらと考えながら玄関に向かう。不審に思いながら「はい」と声を出す。
 返事はない。
 音を立てないようにドアに近づき、スコープから外を覗く。
 「安西君……」
 一瞬ためらったけれど、ドアを開けた。無言のまま、中に導きいれる仕草をするが、彼は敷居をまたがない。
 「どうぞ。突っ立ってないで入って」
 そう勧めても、彼はぴくりとも動かない。
 わたしは観念して、開け放したままのドアを後ろ手に閉めた。バタンという音が異常に大きく聞こえて、一瞬心臓がどきんとする。夜気がほの甘く肌に触れる。
 痩せたのかと思ったけれど、間近で見ると、また少し背が伸びたようだ。
 「挨拶だけしようと思って」
 彼は、自分の身体をもてあますかのように、両手をポケットに入れたり出したりする。
 「……だんなさんは?」
 「だんな?」
 ああ、そうだった。わたしは自分のついた他愛ない嘘をすっかり忘れていた。
 その問いには答えず、わたしはあわてて言葉を探す。
 「そうそう、ちょうどよかった」
 いったん部屋に戻り、押入れから彼の物を入れた紙袋を引っ張り出した。
 「これ、持って帰って」
 突き出した紙袋を、安西君は「なに?」と言う風に中を覗き込み、そのまま足元に置く。
 「別によかったのに。ほとんど風花さんが買ってくれたものだし」
 再び沈黙。
 「挨拶って?」
 「うん」
 安西君はわたしの方に向き直るとまっすぐに前を見て言った。
 「大学に合格しました」
 「それは、おめでとう」
 「東京の大学なんだ。来週上京する」
 「そう……」
 「それだけ言いたくて。色々とお世話になったから」
 そう言うと、安西君は紙袋を手に取った。
 「これまでありがとうございました」
 頭を下げられて、わたしは途端にあわてる。
 「どこの大学?」
 「知らない方がいいと思う」
 「じゃあ、何学部?」
 「……社会学部」
 「そう」
 「うん」
 「じゃあ」
 背を向けかけた彼に、いちばん聞きたかったことを訊ねる。
 「あの日、どうしていなくなったの?」
 安西君は少しためらってからこう言った。
 「だんなさんといるのを見ちゃったんだ」
 だんなさん……?
 「ちょっと外の空気を吸いに行って、帰ってきたら、車に乗っているふたりを見た。それでわかったんだ。ああ、だんなさん、帰ってきたんだなって」
 ……耕介だ。
 一瞬のうちに頭の中を半年前の夜が走馬灯のように駆け巡る。安西君の子どもを身ごもったかもしれないと考えたこと、流産かもしれないと泣きそうになったこと、けれど本当は安堵したこと。
 そう、夫が帰ってきたと思ったの。あなたは、耕介を夫だと思ったの。
 わたしは何も言わずにうなずいた。
 「今、幸せ?」
 最後に安西君は尋ねた。
 「ええ、とっても」
 わたしは極上の笑顔を返した。
 安西君は少し微笑んだ。泣いているような笑顔だった。
 すべて終わった。
 わたしはひとりたたずんで、彼の背中を見つめていた。
 頬をなでる風は春の匂いがした。

                                (了)
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# by kimura-ian | 2006-07-01 15:39 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.16

 姉のオフィスから戻ると、部屋に安西君はいなかった。
 〈退屈だからちょっと外の空気を吸ってくる〉。
 そういうメモが残されていた。
 夜になっても戻らない彼を探して、わたしはアパートの周辺をさまよった。携帯に電話してみても電源が入っていないらしくつながらない。いつか彼を送った道を思い出しながら、彼の家の前にも行ってみた。網戸から明かりとテレビのナイター中継の音が漏れていた。2階の部屋にも電気が点いていたけれど、それが彼の部屋なのかどうかわからない。それより彼には兄弟がいたのだろうかと思い愕然とする。
 わたしは彼について何も知らない。
 彼の友達、彼の家族、彼の好きな音楽、彼が感動した本。わたしの部屋を一歩出れば、彼には彼の生活がある。そのどこにもわたしの入り込む余地はない。
 湿度を含んだ夜気の中で、わたしは孤独を噛みしめる。
 その気になればいつだって彼は自由になれる。わたしからも、家族からも。どこにだって行けるし、なんにだってなれる。彼の未来はまだまったくの白紙なのだから。
 アパートに戻り鍵を開ける。その一瞬、期待してしまう。「おかえり」といつもの笑顔が待っていることを。けれど、部屋は真っ暗で、残したメモがそのままの位置に置かれている。彼の戻った形跡はない。
 部屋は乱雑を極めていた。わたしたちの汗を吸い込んだシーツはしわを刻んでいる。ゴミ箱のカップ麺からは臭気が流れ出し、シンクには底に牛乳やコーラがこびりついたコップが残されている。
 床に丸く横になってみる。綿埃が目に付き、決して快適とは言えなかったけれど、それでも少しは安心する。
 下腹部に鈍い痛みが走る。
 姿勢のせいかもしれないと思い、起き上がってみる。けれど、痛みは徐々に速度を増し、額には脂汗がにじみだす。
 ウソでしょ。
 ベッドの縁に腰掛けてみたり、立ってみたり、ありとあらゆるポーズを取ってみるけれど、痛みはおさまらない。
 誰か助けて。
 鼓動が激しくなり、涙が流れる。
 携帯電話に手を伸ばした。安西君にはやはりつながらない。
 わたしは耕介の番号を押した。

 「緊急で診てくれる産婦人科というと……カミサンが出産した病院しか思いつかないけど、いいか? イヤなら他を探すけど」
 「どこでもいい」
 助手席のシートを倒し、わたしはハンカチを握り締めていた。
 中規模のその病院の面会用の裏口から入る。出てきた看護士に、妊娠の可能性があり出血していると告げると、すぐに医師を呼んできてくれた。
 受付で簡単な問診表を記入し、トイレで尿を採った。そして、すぐに診察室へ入る。これまでの症状を詳しく話した後、内診台へ上る。
 「ひどく出血してますね」
 そう言ったきり、医師は黙り込んでしまう。カチャカチャと器具の音だけが響いて、わたしは小さなため息を漏らす。まるで不安を吐き出すかのように。
 永遠かと思うような時間がようやく終わった。
 「妊娠はしていませんよ」
 「え……?」
 「ホルモンバランスの異常、それに夏バテ。あと少し貧血もあるね」
 「でも、今のこの出血と痛みは……?」
 「あなた、生理が遅れていたでしょう。それがいきなり来たもんだから、いつもよりちょっとひどくなったんだね。痛み止めと増血剤を出しておきましょう」
 拍子抜けした。緊張が急にとけて、すぐには立ち上がれなかった。
 呆然とした様子で診察室から出てきたわたしを見て、耕介が何かを言いかけて、やめた。
 帰りの車の中、わたしは初めて泣いた。泣きながら妊娠ではなかったことを話した。話すとまた次々と新しい涙が湧いてきて、静かな車内で洟をすする音だけが響いた。
 いつまでも泣き止まないわたしに合わせるかのように、車は市内をぐるぐると回っていた。ネオンが涙でにじみ、わたしの目にはきらきら光る宝石のように映った。
 「何か食べないといけないよ」
 耕介がファミリーレストランの駐車場に車を停めた。
 食欲はあまりなかったけれど、うどんと冷たいウーロン茶を頼んだ。
 「もう忘れろ」
 耕介が、ハンバーグを口に入れながら言った。
 「その高校生のことも、婚約者だったヤツのことも」
 「なんで? 今、鳩山さんのことは関係ないじゃない」
 「いや、関係あるね。お前、変わったよ。学生時代はもっと前向きでなんにでも積極的だった。 それが、俺と再会したときにはすっかり臆病者に変わっちまってた。そうなったのは、あの鳩山とかいうヤツのせいだろ? 傷つくのがそんなに怖いか? 去られるのがそんなにつらいか? 今回のこと、相手のガキには一言も相談してなかったんだろ。全部ひとりでおっかぶろうとしてたんだろ」
 「だって……彼は未成年だもん」
 「未成年ったって18だ。結婚だってできる。お前、本当に子どもができていたらどうするつもりだったんだ? そいつと結婚して産もうとはこれっぽっちも考えなかったのか?」
 「……考えなかった」
 「お前はな、逃げてるんだよ。人との関わりを避けてるんだ。不倫するのも未成年と付き合うのも、結婚という可能性を生じさせないためなんだ。結婚できる相手と付き合えば、いつか婚約するかもしれない。そのとき、また破談になるんじゃないか、また棄てられるんじゃないかと考えてしまうのがイヤなんだよ」
 「耕介に言われたくない」
 「それはわかってる。俺が言うのは一番不適切だ。でも今はそんなこといっている場合じゃないだろ」
 耕介はグラスのお冷を一気に飲み干すと、ウエイターにおかわりを頼んだ。
 「うちのカミサンさ、やっぱ自殺未遂だったみたいなんだ」
 「え?」
 「あいつ、俺とお前のことに気づいてた」
 「うそ……」
 「嘘だったらどれだけいいか。俺もビックリだよ。ある日突然実家に帰っちまったけど、俺は、よっぽど子どもの夜泣きがこたえてるんだろうなくらいにしか考えてなったんだよね。そしたらアイツ、俺の携帯を見たって言うんだ。それもメールの記録をさ」
 あの能面のような顔の奥さんが夜中にひとりで液晶画面を見つめている姿を想像する。それはあまりにおリアルで怖ろしく、一瞬鳥肌が立った。
 「あいつ、ずっと思いつめていたらしい。もともと表情の乏しいやつだから、怒ってたこととか悲しんでいたことにまったく気づかなかった俺も悪いんだけどね」
 「悪かったと思ってる。カミサンにもお前にも。自分に都合のいい行動ばかりとっていて、知らない間にふたりとも傷つけていた」
 「わたしは傷ついていないよ」
 「いや、傷ついてる。自分では気づいていないだけさ」
 耕介はナイフとフォークを置いた。じっとわたしを見据える。
 「なあ、いいか。よく聞け。お前は絶対幸せになれる。もう俺や高校生なんかと付き合うな。自分のやりたいこと、したいことから目を逸らすな。まっすぐ前だけ見つめて、生きたいように生きろ」
 帰りの車中、わたしたちは一言も話さなかった。話せば、未練がましいことを口にしてしまいそうだった。今になってようやく耕介の大切さがわかる。男とか女とかそういうんじゃなくて、人間として、友達としてどれほど大切だったか。
 あっという間に車はわたしのアパートの前に着いた。耕介はエンジンを切りもせず、私の方に右手を差し出した。
 わたしはその手を握り返しながら、耕介の手が意外と暖かいことを初めて知った。
 「今まで色々とありがと」
 「こっちこそ。俺がさっき言ったこと、絶対に忘れるなよ。この部屋に入ったら、真っ先に俺の携帯番号を消去しろ。それから高校生のも。そして、ぐっすりと眠って元気になったら、まずは部屋の掃除。とにかくゴミをたくさん出せ」
 「やりがいがありそうね」
 わたしは散らかった部屋を思い笑った。
 「しあさってで夏休みは終わりだ。それまでに新しい服を買え。ちょうど今はバーゲンシーズンだからたくさん買えるだろ。そして月曜日になったら、新しい服を着て、今までとは違う自分になって出社するんだ」
 わたしはコクンとうなずいた。耕介がそんなわたしの頭をなでる。
 「元気でな」
 「耕介も」
 わたし達は固く握手をした。

 翌日、耕介に言われたとおり部屋中を片付けた。時折生理通がわたしを苦しめたけれど、病院でもらった薬を飲めば楽になった。
 安西君とふたりで散らかした部屋だ。そこここに彼の物が、まるで犬がおしっこで自分の跡を残すように散りばめられていた。棄ててしまえば楽になるのだろうけれど、わたしは棄てなかった。彼の服、雑誌、歯ブラシなどを紙袋にまとめ、クローゼットの奥に押し込んだ。
 安西君からの連絡はなかった。彼の心にどのような変化が起こったのかはわからないけれど、それが彼の出した答えなのだろう。
 彼の肌のすべらかさが切なかった。想像よりも大きな背中が愛しかった。抱きしめると壊れそうなくらい繊細なように見えて、そのくせわたしをつかむ腕の力は抗えないほどに強かった。
 掃除をしながら、ぼんやりと彼を想った。そして時々泣いた。
 「さみしい……さみしいよ」
 声に出してみると、堰を切ったように涙が次々とあふれた。わたしが失ったものたち。その輝きはまだ手の中に残っている。形はないけれど。つかめないけれど。
 部屋が片付くと、すべてが初期化された。初めから何もなかったかのような錯覚にさえ陥る。
 土曜日にはクレジットカードを持って街に出た。デパートで夏物のバーゲンをやっている。特設会場の喧騒に混じり、乱雑に並べられた洋服に次々と手を伸ばした。買い物用に与えられた大きな透明のビニール袋の中は、色とりどりのカットソーやボトム、下着などでいっぱいになる。
こんなにたくさんの人に囲まれているのに、わたしは孤独だ。
 服だけでなく食器売り場も覗く。たち吉の夏物の器を買う。水着売り場は通過して、1階のカバン売り場でずっと欲しかった籐製のバッグを手に入れる。同じ階の靴コーナーでアナ・スイのサンダルを買った。
 地階に降りて、京和菓子の店で水羊羹を送る手配をした。姉夫婦宛だ。お中元には時期はずれだから無地のしにしてもらう。
 すべて終えるとせいせいした。
 近くのカフェに入る。店内は人であふれ、店員は忙しそうに歩き回る。まったくもって落ち着かない環境にもかかわらず、なぜかホッとした。運ばれてきた水を一気に飲み干し、アイスカフェラテを頼む。
 わたしの心は決まっていた。明日、朝一番で姉に電話をしようと思った。
                            (つづく)

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# by kimura-ian | 2006-06-16 16:32 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.15

 会社の夏休みが始まった。この休みの間にわたしは決めなければならないことが山ほどあった。まずは仕事のこと。そして子どものこと。
 近所の産婦人科に電話をかけ夏季休業の期間を訊いた。わたしの休みと完全に同じだった。堕ろすなら夏休みの間に済ませたい。他の医院を見つけなければ。
 そうは言いながら、わたしはまだ自分が妊娠していることに確信が持てずにいた。薬局に行き市販の妊娠検査薬を買えば済む問題なのに、それさえ怖くてできない。
 この出血が流産しそうな兆候だというのなら、このまま放っておけば流れてしまうのかもしれない。そうであればいいと思った。ある意味、願ってさえいた。
 わたしの夏休みをきちんと覚えていた安西君が、朝から大きな荷物を持って現れた。
 「どうしたの?」
 目を丸くするわたしに、ピースサインをしてよこす。
 「合宿」
 「合宿に行くの?」
 「んなわけないじゃん。予備校の合宿があるって言って家を出てきた。1週間お世話になります」
 ビックリした。何も聞いていなかった。
 「そんな悪知恵、いつのまに身につけたの?」
 わたしの厭味にも気づかず、彼は荷物を降ろす。
 「そういうわけだから、オレ、合宿の間はこの家から一歩も出られないんだよね。オフクロがその辺ウロウロしてるから」
 「軟禁状態ね」
 わたしはタウンページを片付けた。
 安西君が背後からわたしを抱き寄せた。
 「これでやっと独り占めできる」
 「そう? わたしはいつだって安西君のものだよ」
 「違うよ。いつもはカイシャに持ってかれてる。でも、これからの1週間は24時間全部オレのもの」
 くるりと回され向かい合う。唇が軽く触れる。ギリギリのところでつけては離すことを繰り返し、わたしは徐々にじらされる。
 いつのまにこんなにうまくなったんだろう。
 我慢しきれずにわたしの方から舌を差し入れる。彼の顔を両手で挟み、唇を吸う。鼻の頭に口づける。頬にキスする。耳たぶを噛む。首筋に下を這わせると汗の匂いがした。
 ベッドに押し倒され、二人で転げまわる。わたしが上になる。彼が上になる。くるくる、くるくる。
 「朝っぱらから」
 そうつぶやいたときには、すでにふたりとも着ているものを床に落とした後だった。あわててカーテンを閉める。
 「まだ生理?」
 おりもの専用シートにうっすらとついた血痕を見て彼が問う。
 「もう終わりかけ。大丈夫よ」
 「よかった」
 彼はわたしをキッチンに立たせると、後ろから首筋を舐めた。左手はわたしの乳房をつかみ、右手は叢の間をさまよう。
 「すっごい濡れてる」
 その巧みな指は貝を開き、雫をたぎらせた深みの中にどんどんと吸い込まれていく。
 「声出さないで」
 耳元でささやかれてハッとする。わたしはいつのまにか猫のような声をあげている。
 じらすだけじらして、彼はなかなか入ってこなかった。
 「入れてほしいの? 欲しいなら〈お願い〉って言えよ」
 わたしは子どものようにイヤイヤをする。
 すると彼の指使いはますます激しくなり、わたしはうめき声を漏らす。
 「ほら、近所に聞こえるよ」
 彼は左手でわたしの口を押さえる。耐え切れずにわたしは、その指先に喰らいつく。指の1本1本を口に含み、丁寧に愛撫する。彼の手を両手でつかみ、人差し指に軽く歯を立てる。そして言う。
 「お願い」
 彼のうめき声が聞こえた……と思った次の瞬間、わたしの中に彼が入り込んだ。腰を突き出した姿勢でわたしは、それでも一瞬冷静に「コンドーム」と思ったが、口にはしなかった。
 「血がついてる」
 抜いたペニスをティッシュで拭きながら彼が言った。
 「処女だからね」
 ふざけて返すわたしの頭をこづき、彼が「一緒にシャワー浴びようよ」と誘う。
 わたしは少し驚きながらも、うんと頷いた。
 お互いの手で身体を丁寧に洗いあった。洗いながら何度もキスをした。
 「愛してるよ」
 と言われ、
 「わたしも愛してる」
 と告げた。まるで大事な秘密を漏らすように。
 その声は窓のないバスルームの中で反響し、まるでふたりしか存在しない世界のようにわたしたちの孤独を引き立てた。
 このままずっとここから出たくないと思った。たぶん安西君も同じことを思ったのだろう。わたしたちはふやけるまでそこにいた。そして狭さにも負けず何度も愛し合い、昼過ぎに倒れこむようにベッドに戻った。そして夜まで眠り続けた。

 姉に呼び出されて、以前姉が義兄と別居中に住んでいたマンションに行った。しかし、そこは以前の面影もないほど変わっていた。
 部屋の中央にはドアと対面する位置に大きなデスク。その上にデスクトップ型のパソコンとプリンター。窓にはブラインドがかけられ、来客用のソファがでんと鎮座している。壁一面の本棚には、ファイルや本がぎっしりと収納されていた。
 「オフィスらしくなったでしょう」
 姉は満足そうに微笑んだ。
 「玄関にかけるプレートと名刺も出来上がってるの。挨拶状の印刷も済ませたし、あとは宛名を書いて投函するだけ」
 蓮ちゃんがキャッキャとはしゃぎながら走る。その存在に違和感を覚えるほど、この部屋はすっかり仕事の匂いを発していた。
 「で、結論は出してくれた?」
 姉は、わたしをソファに座らせ、ペットボトルのお茶をグラスに注ぐ。
 「……まだ」
 「リミットは先週末だったはずよ」
 「ごめん、色々あって」
 「こっちにも都合ってものがあるんだから、ダメならダメって早めに言ってほしいの。どう? うちの事務所に来てくれる気持ちは何割くらいあるわけ?」
 「さあ……。五分五分くらい」
 姉は「話にならない」という風に両手を挙げた。
 「日曜日まで待つ。それで返事がなければ、別の人を探すわ。それでいい?」
 わたしはコクンと頷いた。
 「ところで、風ちゃん、痩せたんじゃない? 顔色悪いけど大丈夫?」
 ギクッとした。けれど、顔には出さず「平気、平気」と微笑む。
 「ちょっと夏バテしたみたい。食欲ないし」
 「あら、そうなの? これから一緒に食事しようかと思っていたんだけど」
 「今日は帰る」
 部屋で待つ安西君を想った。短パンにTシャツ姿で、たぶん雑誌を眺めてる。それともテレビを見ているか。
 夏休みに入って5日間、わたしたちはほとんど家から出ずに過ごしていた、何も身につけずに気まぐれに愛し合った。一晩中抱き合う日もあれば、真昼になっても起きない日もあった。外に出られない彼の代わりに、食料品などはわたしが買いに出た。それも、5日のうち2回だけだ。
 今日、姉から電話がかかったとき、わたしは一瞬断ろうかと思った。姉のオフィスを訪れることを、ではなく、仕事のオファー自体を、だ。わたしの部屋はまるで子宮のように安らかで満たされていた。わたしと彼は双生児で、ふたりだけの世界を楽しんでいた。わたしたちは、どんな下界からの干渉も受けたくなかった。それがたとえわたしの将来を決める重要なことであっても、今は考えたくなかった。姉に会わずいれば、毎日のように電話がかかってくるのは明らかだったから、いっそのこと仕事を断ってしまおうと思ったのだ。
 けれど、わたしはそうしなかった。ほんのひとかけらの未練が、わたしをここに向かわせた。この仕事を受ければ、姉のようになれる。いや、姉そのものになれるのだ。
 「約束よ。必ず今週中に返事して」
 念を押す姉を残し、わたしは部屋へと急いだ。
 妊娠してるとして。
 もし産もうとするならば、わたしはひとりで産まなければならない。たったひとりで。そうなれば、今更転職している場合ではない。収入が減るとわかっていて、子どもとふたりの生活を預ける気にはなれない。
 では、産まないとすれば? それなら処置は早くしなければならない。こうしている間にも胎児はどんどん成長している。
 処置さえすれば、転職しても何も問題はない。これまでと同じように生活が続くだけだ。しかし、本当に何も変わらないのだろうか。堕胎はわたしを狂気に走らせはしないか。それに、安西君に何も知らせずにわたしたちの子どもを殺して、それでもわたしは平気な顔をして彼と会えるだろうか。そして、そんな精神状態で、わたしは新しい仕事に向かえるだろうか。
 そう考えると、産むにしろ産まないにしろ、姉の事務所に行くのは不可能なような気がした。
 妊娠していないという可能性は、残念ながらほとんどない。食欲は日を追うごとになくなり、常に吐き気がするようになった。出血は、夏休み最初の日に安西君と抱き合ったあと止まった。もちろん生理らしいものも来ない。
 立ち止まり、お腹に手を当ててみる。君はそこにいるの? そう心の中でつぶやいてみる。自然と涙が流れた。
                      (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-05-25 22:33 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.14

 部屋に戻るといつものように安西君が寝転がってビデオを見ていた。レンタル店の青い袋が口を開けて床に落ちている。私の持っているビデオはすでに制覇してしまい、こうして毎日新しいビデオを借りてくるのだ。
 食卓の上には冷麺がふたり分用意されている。ガンガンに冷やされた部屋で、今はむしろ温かいものを口にしたいというのに。
 「エアコン、切るよ」
 朝からずっと運転を続けていたのだろう。リモコンを押すとまるでため息のような音を残しモーターが止まった。
 窓を開け、かび臭い空気を入れ替える。
 ほんの少し吐き気がする.わたしはバスルームで念入りにうがいをした。ついでにトイレを済ませると、下着につけたおりもの専用シートにまたかすかな出血が見られた。
 これでもう3日目だ。遅れている生理がようやく来たと思ったら、量が異様に少ない。軽いのは助かるけれど、あまりにも軽すぎると心配になる。このままダラダラと続くのなら厭だなぁ。明日あたりドカンと来るかもしれない。多い日用のナプキンはあっただろうかと棚の上を確認する。
 「今日も予備校行かなかったの?」
 うつぶせたままいつまでもビデオを見続ける安西君に声をかけてみる。が、返事はない。画面には殺戮のシーンが繰り広げられ、わたしは思わず視線を逸らす。
 室内はあっという間に蒸し暑さが入り込み、着替えたばかりのタンクトップは汗を吸い始める。
 最近、本気で心配になり始めた。安西君は本当に勉強しなくて大丈夫なのだろうか?
 以前はこうではなかった。うちに来ていても、わたしがそばにいても、必ず勉強道具を持参して問題集を解いたりしていた。夏休みといえば、受験生にとって合否の分かれ道ではなかったか? その過ごし方によって確実に偏差値に差がつくはずなのに。
 何を言っても聞こえないらしい彼を無視して、ひとりで冷麺を食べる。トマトが熟れすぎている。甘さが舌に残り、あわてて冷蔵庫からエビアン水を取り出す。
 「どうせなら冷蔵庫で冷やしておいてくれたらよかったのに」
 そうつぶやくと、
 「あ、そうそう、お鍋の中に味噌汁があるから温めて」
 と、わたしが帰宅して初めて、彼の声が聞けた。
 茄子の入ったお味噌汁。温めて2つのお椀に入れる。
 「一緒に食べようよ」
 画面はようやく最後のテロップになっていて、安西君は素直に食卓についた。
 「あー、おもしろかった」
 「何見てたの?」
 「ターミネーター」
 彼は冷麺にかけてあったラップをはずし、一口食べて「ぬるい」とつぶやいた。冷凍庫から氷を持ってきて「風花さんもこうしたらいいんだよ」とそれを麺の上にのせる。
 「予備校に行ってよ」
 「なんで? オレが家にいるのイヤ?」
 「そういうんじゃなくて。今頑張らないと本当にまずいよ」
 「何が?」
 「受験」
 茄子の入ったお味噌汁に口をつける。豆の匂いがもわっと立ちのぼり、思わずわたしはトイレに駆け込んだ。
 「大丈夫?」
 不安そうな声が背後から聞こえる。
 胃の中のものを全部出すと少し楽になった。口をゆすぎ、そのままユニットバスの縁に腰を下ろす。
 「ねえ、風花さん、もしかして……」
 安西君が開けたままのドアの前に立ち、棄てられた子猫のような目で見下ろす。
 「大丈夫だよ。何心配してるの」
 口角を上げ明るい声でそう返したけれど、彼の表情は強ばったままだ。
 「だよね。だって、ちゃんと避妊してるもんね」
 自分に言い聞かすようなそのセリフは、わたしの心の脇をスッとすり抜けてしまう。そして、なぜか彼が急に気の毒になり、安心させるようなことを言わなくちゃと思う。
 「わたし今、生理中なんだ。生理のときって時々こういう風に気分が悪くなるの」
 ニッコリと笑顔を送る。ようやく彼は安心したように微笑を返す。
 「そっか。じゃあ、大丈夫だね」
 「うん。もしかしたら夏風邪をひいてるのかも。とにかく今日は早く寝るわ」
 「じゃあ、オレも今日はこれ食べたら帰る」
 わたしたちはあわただしく食事を済ませ、チュッとキスをした。
 「エッチできなくて残念」
 そうささやく安西君に、
 「わたしの身体が目当てなの?」とふざけて言う。違うよ、とあわてて否定する手つきがおかしくて、わたし達は声をあげて笑う。
 ああ、楽しいし、幸せだ。
 彼が帰った後の部屋で、デッキからビデオを抜き取り、レンタル店の袋に戻そうとして、中にもう一本ビデオが入っていることに気づいた。明らかにAVとわかるそのタイトルに苦笑する。
 注意すべきだろうか、それとも黙認するか。
 わたしはそっとそのビデオを袋にしまった。
 
 奥さんが一般病棟に移ったと耕介から連絡があった。頭に異常はなかったらしい。
 「よかったね」
 と言うと、
 「ま、これを機にこれからは家庭のために生きるわ」
 とサバサバしたような口調で言った。
 「寂しくなるわ」
 わたしがそう言うと、
 「よく言うよ」
 と豪快に笑う。
 合わせてわたしも笑ったけれど、心にぽっかり開いたような気持ちは消えなかった。
 それから1週間が経った。
 あいかわらずわたしは微量の出血していた。その話を姉にしたところ、婦人科に行けとしきりに言う。
 「不正出血はなんらかのシグナルなのよ。子宮筋腫とか子宮ガンとか、何かしら異常があるから起こるの。そういえば風ちゃん、子宮ガン検診は受けてるの?」
 「ううん。会社から行けっていう文書が来ていたけど、なんだか億劫で」
 「ダメよ。30を過ぎたら、最低でも1年に1回は受けなくちゃ。診てもらうついでに検診も受けてきなさい」
 まるで母親のようにまくしたてる姉を適当にあしらって受話器を置いた。
 西田さんも同じように婦人科の診察を受けた方がいいと言っていた。けれど、わたしはどうしてもそんな気になれない。婦人科というところはテレビでしか知らないけれど、あの独特の内診台は異様だし、妊娠もしていない女性が行くにはあまりにも勇気がいる場所のような気がする。
 妊娠もしていない……?
 わたしは本当に妊娠していないのだろうか。あわてて本屋に向かう。「家庭の医学」のコーナーに「婦人科」という棚を見つける。手当たり次第にページをめくる。
 生理ではない出血がある場合。
 姉の言うように、子宮筋腫や子宮ガン、あるいは子宮内膜症などが疑われるという記述と並んで、もし妊娠の可能性がある場合は切迫流産の疑いがあるのですぐに受診をするようにと書かれてあった。
 流産?
 生理が来るはずの日から2週間が経っていた。
 わたしは、さらに「妊娠・出産」の棚から本を抜き出す。そして、生理周期から受胎日を割り出す表に自分の場合を当てはめてみる。
 相手は安西君以外ありえない。
 でも、待って。わたしたちはちゃんと避妊をしていたはずだ。コンドームをつけずにセックスするなんてことは一度もなかった。
 お腹の大きな女の人が「すみません、いいですか」とわたしの前にある本を取りたそうにした。
 「ああ、ごめんなさい」
 場所を譲り、呆然と立ちすくんだ。
 行為の最終的な段階では必ずつけていたけど、最初の戯れの間にはつけなかったことが何度かある。
 「ダメよ」
 両手で制するわたしを羽交い絞めにして、無理矢理足を開かせたのはいつのことだっただろう。クスクスと笑いながらしまいには降参してしまい、「初めだけよ」と受け入れたのはわたし。
最後に放出するときでなくても妊娠の可能性はあると女性誌で読んだことがある。あるいはコンドームが破れていた……?
 どっちにしても、100パーセントの避妊なんてありえない。
 目の前が真っ暗になり、その場にしゃがみこんだ。さっきの妊婦が何か声を掛けてくれていたがまったく聞こえず、わたしはそのまま気を失った。
                   (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-05-22 16:39 | 長編1