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ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.17 最終回

 カーテンの隙間から透明な日差しがキラキラと輝いている。まだじっとしていたい。温かな毛布に包まれて意識が遠くなる。
 いかん、いかん。
 布団を跳ね除けると、わたしは真っ先に温風ヒーターをつけた。
 室内でも吐く息は白い。暦の上では春になったはずなのに、外ではやはり冬物のコートが必要だった。
 クローゼットの中から紺色のパンツスーツを取り出す。よく見れば薄く細かい縦じまが入っているこれは、年明けのセールで買ったものだ。わたしの勝負服。知的で清楚な雰囲気が出るように、中に着るブラウスは水色にする。
 着替えを済ませて顔を上げると、先週買ったばかりの白いスプリングコートが、出番はまだかとわたしを見下ろす。よーし、今日こそ着てやろう。下にババシャツを着れば、なんとか寒さもしのげるだろう。
 会社の制服が廃止されて3ヶ月になる。今年からは経費削減のため、新たな制服の購入が中止されたのだ。制服を着続けたい者は着ても構わない。けれど、劣化しても取り替えてはもらえない。
 制服の廃止と同じ頃、わたしは異動になった。広報宣伝部。
 異動した当初、広報宣伝部には若手社員がほとんど残っていなかった。そもそも高齢化が進んでいた部門ではあったのだが、早期退職の勧奨が行われた結果、30歳前後の中堅社員は、皆辞めるか、営業部に異動させられていた。残ったのは、入社して3年の男性社員、あとは派遣会社から来ているデザイナーが1名。
 「一体、わたしに何ができるのでしょう……?」
 疑問をそのまま口にする。その頃、これまでのキャリアとはまったく関係のない仕事を与えることによって退職を迫ろうとするいやらしい手法のリストラが行われていたこともあり、わたしは自分もその対象になったのだとばかり思い込んだ。
 しかし、それは違った。わたしの個人データファイルの片隅に、入社以来広報の仕事を希望しているという記載を見つけた上司が、広報宣伝部の部長にかけあってくれたのだ。
わたしに与えられたのは、社内報の編集業務。加えて、営業部門と連携して、セールスアシスタント養成のための研修ビデオの製作だった。
 わたしが来るまではそれぞれの業務にひとりずつの担当者がいたというから、わたしはふたり分の仕事を請け負ったことになる。残業代は月に20時間分までしか出ない。わたしは毎晩9時ごろまで残って働いたので、本来であれば残業代はその3倍以上あったけれど、すべてサービスだ。それでも充実している。毎日がキラキラと輝いて、朝目覚めるのが楽しみでさえある。
 会社に着くと、わたしはまずパソコンを立ち上げる。メールをチェックし、今日行われる会議の資料の最終チェックを行う。
 オフィスにはまだほとんど人影がない。この時間がいちばん快適だ。
 コーヒーを片手に準備を整えると、隣の人事部に西田さんの姿が見えた。彼女も私服組だ。彼女は、以前はあれほど割り切っていたのに、新しい仕事に就くとぐんぐんとやる気を見せ、上司も驚くほどの成果をみせた。リストラが進められ、退職者が増えているにもかかわらず、それほど混乱が起きていないのは彼女の功績が大きいのではないだろうかとわたしは思っている。
 頑張りましょうね。
 心の中でエールを送り、わたしはまたデスクに向かった。

 わたしは結局、義兄の会社には入らなかった。なぜかと問われれば、即答できるような答えは持っていない。ただ、勘のようなものが働いたのだ。あの時、わたしはどこに逃げても満足はできなかっただろう。わたしの憂鬱の原因は、わたし自身の中にあったのだから。
 義兄は業界紙でコピーライターを募集し、不況の波はかぶりながらも、それなりに景気よくやっている。姉は、独立したものの、思ったように仕事は入らず、多少苦労しているみたい。
 「事務所の経費を支払ったら、手元に残るものはなし」
 と苦笑していたけれど、最近はインターネット上でコラムを書きはじめたり精力的に活動している。そして、驚いたことに、姉はまた妊娠した。今はまだつわりの時期だけれど、出産当日まで仕事をしてやると張り切っている。
 耕介とはあれ以来会っていない。きっと幸せにしているのだろう。連絡がないことこそがそれを証明しているように思える。
 そして、安西君。
 彼からの連絡は一切ない。まるで神隠しにでもあったかのようにわたしの部屋から消えてしまったあの日からずっと、彼は不在を続けている。今となっては、彼と過ごした時間は実は夢で、最初から彼は存在しなかったのではないかとさえ思えてくる。
 どちらにしても。
 わたしはもう彼を待たない。時折思い出して、ため息をついたり、ほんの1滴涙を流したりはするけれど。
 実を言うと、一度だけ、安西君の家のそばまで行ったことがある。8月の終わりの日の夕暮れだ。
 彼の家から数十メートル離れた地点にたどり着くと、家の門扉の前に女性がひとり立っているのが見えた。じょうろを片手に花に水をやっている。
 お母さんだろうか。白のパンツに水色のニットを着ている。ゆるくアップにした髪はきちんとカールされ、まるでハイソな主婦向け雑誌に出てくるモデルのようだった。思ったより若くて驚いた。 見た目にはわたしとそれほど違わないような気がする。なんだかひどくショックだ……。
 その女性と一瞬目があった。わたしは軽く会釈をして通り過ぎる。どこかで犬が狂ったように鳴いた。
 それからだ。わたしの日常が動き出したのは。色彩を持って輝き出したのは。

 今のわたしの毎日は、スーツと資料とパソコンと、そして休日の不動産めぐりでできている。
 そう、いよいよこのアパートを引き払い、自分の城を持とうと決めたのだ。いつまで今の会社にいられるかわからないけれど、30代を快適に過ごすために、そして誰かに依存してしまわないために、わたしはわたしを守る砦を築く必要がある。1DKか2Kくらいで南向き。できれば広めのバルコニーがあるところ。通勤に便利で、ファミリー層よりもわたしと同じように独身で勤めている人たちが多く住むようなマンションを求めている。
 週末、不動産屋に向かう途中で川沿いの遊歩道を歩いた。いつのまにか桜がつぼみをほころばせていた。
 「そっか、もう3月も終わりだもんなぁ」
 ひとりつぶやいてそっと見上げる。今日のこの天気だと、一気に五分咲きくらいにはなってしまうかもしれない。年々早くなる桜の開花時期。
 見せてもらった部屋は、1軒目は日当たりがいまいちなのと騒音がうるさいことで却下。2軒目は、日当たりも間取りも申し分なかったけれど、2階だということで治安の面で不安があり、お断わりさせてもらった。
 最後に訪れた部屋に一足入ると、わたしは「うわぁ」と声をあげた。
 「すごいでしょ」
 1日付き合ってくれた担当者が、自信ありげに微笑む。
 玄関からまっすぐ伸びた廊下の先に、ベランダ越しの桜が見えた。
 「ここは4階ですからね、ちょうど入居される頃には満開の桜が見られますよ」
 ベランダの幅は広く、カフェテーブルを置いてお茶でも飲めそうな雰囲気だ。
 「キッチンは対面式ですし、ほら、キッチンからも桜が見えるんですよ」
 リビングは板張りで、続く六畳の和室には引き戸がある。これなら姉や蓮ちゃんだって泊められる。
 「玄関横の洋室は、北向きなので多少暗くはありますが、寝室として使われるのでしたらかえっていいでしょう」
 「ええ、わたしもそう思っていたところです」
 全体的に新しい造りだった。
 「きれいでしょう」
 わたしの考えを見透かしたように担当者が言う。
 「実は、本当に新しいんですよ。新築でね、新婚さんが住まれていたんですけど、ご主人のお父様が亡くなられて、急遽家業を継がれることになりまして。で、買ったばかりのこのマンションも手放さざるを得なくなった……という経緯なんです」
 「お気の毒ですね」
 「ほんとに。でも、まあ、その新婚さん自身は、あまり未練はなかったようです」
 「あら、どうして?」
 何か住むのに不都合なことでもあるのだろうか。
 「子育てには不向きだってことに気づかれたんですね。こちらのベランダから、桜の立っている場所をちょっと見ていただけますか」
 ベランダに出て外を見下ろす。緑の木々の間に、ブルーのシートがかすかに見える。
 「ここからだとほとんどわからないんですけど、この公園、浮浪者が寝泊りしているんですよ。だから、せっかく公園があっても子どもを遊ばせられない。それに、マンションの1階の飲食店も気に入らなかったみたいです。分譲した時点ではまだテナントは決まっていなかったのですが、彼らが入居した後に入ったのが……」
 「ああ、コンビニとカラオケ店と焼き鳥屋、でしたっけ?」
 「よくチェックされてますね」
 担当者が苦笑いした。
 「コンビニがあるのは便利ですけど、自分の家のそばにあるのはちょっと、とおっしゃられるお客様も多いんです。特に、お子様をお持ちの方はなんかは。それにカラオケ店でしょ。外に音が漏れることはないんですけど、なんとなく厭みたいで」
 「焼き鳥屋はアルコールを飲む人であふれるし、においがするものね」
 わたしが話の後を継ぐと、「はい」と担当者はうなだれた。
 「わたしは別に構わないけど」
 わたしは元気よくそう言った。
 「コンビニがあると便利だし、カラオケは好きだし、焼き鳥もアルコールも大好きだから」
 担当者の顔がパーッと明るくなる。
 「でもね、予算内に収まるのかしら? それが心配。物件はすごく気に入ったんだけど、もう少し考えさせてくれる?」

 家に帰り、これまでに集めた住宅情報誌やチラシをもう一度じっくり眺める。何度眺めてもやっぱり今日見た物件が忘れられない。
 ベランダから桜を眺めながらビールを飲んでみたい。
 ちっぽけな願望だけれど、そういう未来なら想像できる。容易に。
 インタホンが鳴った。
 宅配便だろうか。
 最近注文した化粧品はあったかしらと考えながら玄関に向かう。不審に思いながら「はい」と声を出す。
 返事はない。
 音を立てないようにドアに近づき、スコープから外を覗く。
 「安西君……」
 一瞬ためらったけれど、ドアを開けた。無言のまま、中に導きいれる仕草をするが、彼は敷居をまたがない。
 「どうぞ。突っ立ってないで入って」
 そう勧めても、彼はぴくりとも動かない。
 わたしは観念して、開け放したままのドアを後ろ手に閉めた。バタンという音が異常に大きく聞こえて、一瞬心臓がどきんとする。夜気がほの甘く肌に触れる。
 痩せたのかと思ったけれど、間近で見ると、また少し背が伸びたようだ。
 「挨拶だけしようと思って」
 彼は、自分の身体をもてあますかのように、両手をポケットに入れたり出したりする。
 「……だんなさんは?」
 「だんな?」
 ああ、そうだった。わたしは自分のついた他愛ない嘘をすっかり忘れていた。
 その問いには答えず、わたしはあわてて言葉を探す。
 「そうそう、ちょうどよかった」
 いったん部屋に戻り、押入れから彼の物を入れた紙袋を引っ張り出した。
 「これ、持って帰って」
 突き出した紙袋を、安西君は「なに?」と言う風に中を覗き込み、そのまま足元に置く。
 「別によかったのに。ほとんど風花さんが買ってくれたものだし」
 再び沈黙。
 「挨拶って?」
 「うん」
 安西君はわたしの方に向き直るとまっすぐに前を見て言った。
 「大学に合格しました」
 「それは、おめでとう」
 「東京の大学なんだ。来週上京する」
 「そう……」
 「それだけ言いたくて。色々とお世話になったから」
 そう言うと、安西君は紙袋を手に取った。
 「これまでありがとうございました」
 頭を下げられて、わたしは途端にあわてる。
 「どこの大学?」
 「知らない方がいいと思う」
 「じゃあ、何学部?」
 「……社会学部」
 「そう」
 「うん」
 「じゃあ」
 背を向けかけた彼に、いちばん聞きたかったことを訊ねる。
 「あの日、どうしていなくなったの?」
 安西君は少しためらってからこう言った。
 「だんなさんといるのを見ちゃったんだ」
 だんなさん……?
 「ちょっと外の空気を吸いに行って、帰ってきたら、車に乗っているふたりを見た。それでわかったんだ。ああ、だんなさん、帰ってきたんだなって」
 ……耕介だ。
 一瞬のうちに頭の中を半年前の夜が走馬灯のように駆け巡る。安西君の子どもを身ごもったかもしれないと考えたこと、流産かもしれないと泣きそうになったこと、けれど本当は安堵したこと。
 そう、夫が帰ってきたと思ったの。あなたは、耕介を夫だと思ったの。
 わたしは何も言わずにうなずいた。
 「今、幸せ?」
 最後に安西君は尋ねた。
 「ええ、とっても」
 わたしは極上の笑顔を返した。
 安西君は少し微笑んだ。泣いているような笑顔だった。
 すべて終わった。
 わたしはひとりたたずんで、彼の背中を見つめていた。
 頬をなでる風は春の匂いがした。

                                (了)
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by kimura-ian | 2006-07-01 15:39 | 長編1
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