《お知らせ》 しばらくお休みします

※これは小説ではありません。 


いつもご愛読ありがとうございます。

しばらく続けてきたこのブログですが、長編掲載が終了したところで、しばらくお休みをいただきたいと思います。

このブログを始めるまでは、ただ自分の気持ちのままに、書きたいことを書きたいように書いてきました。
しかし、みなさんに読んでいただいたことで、“人様にお見せする”ということを、多少なりとも意識できるようになってきたように思います。
読んでいただくからには、今のままではいけないな……というのが、今の正直な気持ちです。

今までのやり方を改めて、いちどリセットしてみたい。

いつかまた再開するかも知れないし、まったく別の場所で再スタートするかもしれません。
ご縁がありましたら、いつかまたどこかでお目にかかりましょう。

本当にありがとうございました。

                                    kimura-ian
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# by kimura-ian | 2006-07-10 00:33

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.17 最終回

 カーテンの隙間から透明な日差しがキラキラと輝いている。まだじっとしていたい。温かな毛布に包まれて意識が遠くなる。
 いかん、いかん。
 布団を跳ね除けると、わたしは真っ先に温風ヒーターをつけた。
 室内でも吐く息は白い。暦の上では春になったはずなのに、外ではやはり冬物のコートが必要だった。
 クローゼットの中から紺色のパンツスーツを取り出す。よく見れば薄く細かい縦じまが入っているこれは、年明けのセールで買ったものだ。わたしの勝負服。知的で清楚な雰囲気が出るように、中に着るブラウスは水色にする。
 着替えを済ませて顔を上げると、先週買ったばかりの白いスプリングコートが、出番はまだかとわたしを見下ろす。よーし、今日こそ着てやろう。下にババシャツを着れば、なんとか寒さもしのげるだろう。
 会社の制服が廃止されて3ヶ月になる。今年からは経費削減のため、新たな制服の購入が中止されたのだ。制服を着続けたい者は着ても構わない。けれど、劣化しても取り替えてはもらえない。
 制服の廃止と同じ頃、わたしは異動になった。広報宣伝部。
 異動した当初、広報宣伝部には若手社員がほとんど残っていなかった。そもそも高齢化が進んでいた部門ではあったのだが、早期退職の勧奨が行われた結果、30歳前後の中堅社員は、皆辞めるか、営業部に異動させられていた。残ったのは、入社して3年の男性社員、あとは派遣会社から来ているデザイナーが1名。
 「一体、わたしに何ができるのでしょう……?」
 疑問をそのまま口にする。その頃、これまでのキャリアとはまったく関係のない仕事を与えることによって退職を迫ろうとするいやらしい手法のリストラが行われていたこともあり、わたしは自分もその対象になったのだとばかり思い込んだ。
 しかし、それは違った。わたしの個人データファイルの片隅に、入社以来広報の仕事を希望しているという記載を見つけた上司が、広報宣伝部の部長にかけあってくれたのだ。
わたしに与えられたのは、社内報の編集業務。加えて、営業部門と連携して、セールスアシスタント養成のための研修ビデオの製作だった。
 わたしが来るまではそれぞれの業務にひとりずつの担当者がいたというから、わたしはふたり分の仕事を請け負ったことになる。残業代は月に20時間分までしか出ない。わたしは毎晩9時ごろまで残って働いたので、本来であれば残業代はその3倍以上あったけれど、すべてサービスだ。それでも充実している。毎日がキラキラと輝いて、朝目覚めるのが楽しみでさえある。
 会社に着くと、わたしはまずパソコンを立ち上げる。メールをチェックし、今日行われる会議の資料の最終チェックを行う。
 オフィスにはまだほとんど人影がない。この時間がいちばん快適だ。
 コーヒーを片手に準備を整えると、隣の人事部に西田さんの姿が見えた。彼女も私服組だ。彼女は、以前はあれほど割り切っていたのに、新しい仕事に就くとぐんぐんとやる気を見せ、上司も驚くほどの成果をみせた。リストラが進められ、退職者が増えているにもかかわらず、それほど混乱が起きていないのは彼女の功績が大きいのではないだろうかとわたしは思っている。
 頑張りましょうね。
 心の中でエールを送り、わたしはまたデスクに向かった。

 わたしは結局、義兄の会社には入らなかった。なぜかと問われれば、即答できるような答えは持っていない。ただ、勘のようなものが働いたのだ。あの時、わたしはどこに逃げても満足はできなかっただろう。わたしの憂鬱の原因は、わたし自身の中にあったのだから。
 義兄は業界紙でコピーライターを募集し、不況の波はかぶりながらも、それなりに景気よくやっている。姉は、独立したものの、思ったように仕事は入らず、多少苦労しているみたい。
 「事務所の経費を支払ったら、手元に残るものはなし」
 と苦笑していたけれど、最近はインターネット上でコラムを書きはじめたり精力的に活動している。そして、驚いたことに、姉はまた妊娠した。今はまだつわりの時期だけれど、出産当日まで仕事をしてやると張り切っている。
 耕介とはあれ以来会っていない。きっと幸せにしているのだろう。連絡がないことこそがそれを証明しているように思える。
 そして、安西君。
 彼からの連絡は一切ない。まるで神隠しにでもあったかのようにわたしの部屋から消えてしまったあの日からずっと、彼は不在を続けている。今となっては、彼と過ごした時間は実は夢で、最初から彼は存在しなかったのではないかとさえ思えてくる。
 どちらにしても。
 わたしはもう彼を待たない。時折思い出して、ため息をついたり、ほんの1滴涙を流したりはするけれど。
 実を言うと、一度だけ、安西君の家のそばまで行ったことがある。8月の終わりの日の夕暮れだ。
 彼の家から数十メートル離れた地点にたどり着くと、家の門扉の前に女性がひとり立っているのが見えた。じょうろを片手に花に水をやっている。
 お母さんだろうか。白のパンツに水色のニットを着ている。ゆるくアップにした髪はきちんとカールされ、まるでハイソな主婦向け雑誌に出てくるモデルのようだった。思ったより若くて驚いた。 見た目にはわたしとそれほど違わないような気がする。なんだかひどくショックだ……。
 その女性と一瞬目があった。わたしは軽く会釈をして通り過ぎる。どこかで犬が狂ったように鳴いた。
 それからだ。わたしの日常が動き出したのは。色彩を持って輝き出したのは。

 今のわたしの毎日は、スーツと資料とパソコンと、そして休日の不動産めぐりでできている。
 そう、いよいよこのアパートを引き払い、自分の城を持とうと決めたのだ。いつまで今の会社にいられるかわからないけれど、30代を快適に過ごすために、そして誰かに依存してしまわないために、わたしはわたしを守る砦を築く必要がある。1DKか2Kくらいで南向き。できれば広めのバルコニーがあるところ。通勤に便利で、ファミリー層よりもわたしと同じように独身で勤めている人たちが多く住むようなマンションを求めている。
 週末、不動産屋に向かう途中で川沿いの遊歩道を歩いた。いつのまにか桜がつぼみをほころばせていた。
 「そっか、もう3月も終わりだもんなぁ」
 ひとりつぶやいてそっと見上げる。今日のこの天気だと、一気に五分咲きくらいにはなってしまうかもしれない。年々早くなる桜の開花時期。
 見せてもらった部屋は、1軒目は日当たりがいまいちなのと騒音がうるさいことで却下。2軒目は、日当たりも間取りも申し分なかったけれど、2階だということで治安の面で不安があり、お断わりさせてもらった。
 最後に訪れた部屋に一足入ると、わたしは「うわぁ」と声をあげた。
 「すごいでしょ」
 1日付き合ってくれた担当者が、自信ありげに微笑む。
 玄関からまっすぐ伸びた廊下の先に、ベランダ越しの桜が見えた。
 「ここは4階ですからね、ちょうど入居される頃には満開の桜が見られますよ」
 ベランダの幅は広く、カフェテーブルを置いてお茶でも飲めそうな雰囲気だ。
 「キッチンは対面式ですし、ほら、キッチンからも桜が見えるんですよ」
 リビングは板張りで、続く六畳の和室には引き戸がある。これなら姉や蓮ちゃんだって泊められる。
 「玄関横の洋室は、北向きなので多少暗くはありますが、寝室として使われるのでしたらかえっていいでしょう」
 「ええ、わたしもそう思っていたところです」
 全体的に新しい造りだった。
 「きれいでしょう」
 わたしの考えを見透かしたように担当者が言う。
 「実は、本当に新しいんですよ。新築でね、新婚さんが住まれていたんですけど、ご主人のお父様が亡くなられて、急遽家業を継がれることになりまして。で、買ったばかりのこのマンションも手放さざるを得なくなった……という経緯なんです」
 「お気の毒ですね」
 「ほんとに。でも、まあ、その新婚さん自身は、あまり未練はなかったようです」
 「あら、どうして?」
 何か住むのに不都合なことでもあるのだろうか。
 「子育てには不向きだってことに気づかれたんですね。こちらのベランダから、桜の立っている場所をちょっと見ていただけますか」
 ベランダに出て外を見下ろす。緑の木々の間に、ブルーのシートがかすかに見える。
 「ここからだとほとんどわからないんですけど、この公園、浮浪者が寝泊りしているんですよ。だから、せっかく公園があっても子どもを遊ばせられない。それに、マンションの1階の飲食店も気に入らなかったみたいです。分譲した時点ではまだテナントは決まっていなかったのですが、彼らが入居した後に入ったのが……」
 「ああ、コンビニとカラオケ店と焼き鳥屋、でしたっけ?」
 「よくチェックされてますね」
 担当者が苦笑いした。
 「コンビニがあるのは便利ですけど、自分の家のそばにあるのはちょっと、とおっしゃられるお客様も多いんです。特に、お子様をお持ちの方はなんかは。それにカラオケ店でしょ。外に音が漏れることはないんですけど、なんとなく厭みたいで」
 「焼き鳥屋はアルコールを飲む人であふれるし、においがするものね」
 わたしが話の後を継ぐと、「はい」と担当者はうなだれた。
 「わたしは別に構わないけど」
 わたしは元気よくそう言った。
 「コンビニがあると便利だし、カラオケは好きだし、焼き鳥もアルコールも大好きだから」
 担当者の顔がパーッと明るくなる。
 「でもね、予算内に収まるのかしら? それが心配。物件はすごく気に入ったんだけど、もう少し考えさせてくれる?」

 家に帰り、これまでに集めた住宅情報誌やチラシをもう一度じっくり眺める。何度眺めてもやっぱり今日見た物件が忘れられない。
 ベランダから桜を眺めながらビールを飲んでみたい。
 ちっぽけな願望だけれど、そういう未来なら想像できる。容易に。
 インタホンが鳴った。
 宅配便だろうか。
 最近注文した化粧品はあったかしらと考えながら玄関に向かう。不審に思いながら「はい」と声を出す。
 返事はない。
 音を立てないようにドアに近づき、スコープから外を覗く。
 「安西君……」
 一瞬ためらったけれど、ドアを開けた。無言のまま、中に導きいれる仕草をするが、彼は敷居をまたがない。
 「どうぞ。突っ立ってないで入って」
 そう勧めても、彼はぴくりとも動かない。
 わたしは観念して、開け放したままのドアを後ろ手に閉めた。バタンという音が異常に大きく聞こえて、一瞬心臓がどきんとする。夜気がほの甘く肌に触れる。
 痩せたのかと思ったけれど、間近で見ると、また少し背が伸びたようだ。
 「挨拶だけしようと思って」
 彼は、自分の身体をもてあますかのように、両手をポケットに入れたり出したりする。
 「……だんなさんは?」
 「だんな?」
 ああ、そうだった。わたしは自分のついた他愛ない嘘をすっかり忘れていた。
 その問いには答えず、わたしはあわてて言葉を探す。
 「そうそう、ちょうどよかった」
 いったん部屋に戻り、押入れから彼の物を入れた紙袋を引っ張り出した。
 「これ、持って帰って」
 突き出した紙袋を、安西君は「なに?」と言う風に中を覗き込み、そのまま足元に置く。
 「別によかったのに。ほとんど風花さんが買ってくれたものだし」
 再び沈黙。
 「挨拶って?」
 「うん」
 安西君はわたしの方に向き直るとまっすぐに前を見て言った。
 「大学に合格しました」
 「それは、おめでとう」
 「東京の大学なんだ。来週上京する」
 「そう……」
 「それだけ言いたくて。色々とお世話になったから」
 そう言うと、安西君は紙袋を手に取った。
 「これまでありがとうございました」
 頭を下げられて、わたしは途端にあわてる。
 「どこの大学?」
 「知らない方がいいと思う」
 「じゃあ、何学部?」
 「……社会学部」
 「そう」
 「うん」
 「じゃあ」
 背を向けかけた彼に、いちばん聞きたかったことを訊ねる。
 「あの日、どうしていなくなったの?」
 安西君は少しためらってからこう言った。
 「だんなさんといるのを見ちゃったんだ」
 だんなさん……?
 「ちょっと外の空気を吸いに行って、帰ってきたら、車に乗っているふたりを見た。それでわかったんだ。ああ、だんなさん、帰ってきたんだなって」
 ……耕介だ。
 一瞬のうちに頭の中を半年前の夜が走馬灯のように駆け巡る。安西君の子どもを身ごもったかもしれないと考えたこと、流産かもしれないと泣きそうになったこと、けれど本当は安堵したこと。
 そう、夫が帰ってきたと思ったの。あなたは、耕介を夫だと思ったの。
 わたしは何も言わずにうなずいた。
 「今、幸せ?」
 最後に安西君は尋ねた。
 「ええ、とっても」
 わたしは極上の笑顔を返した。
 安西君は少し微笑んだ。泣いているような笑顔だった。
 すべて終わった。
 わたしはひとりたたずんで、彼の背中を見つめていた。
 頬をなでる風は春の匂いがした。

                                (了)
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# by kimura-ian | 2006-07-01 15:39 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.16

 姉のオフィスから戻ると、部屋に安西君はいなかった。
 〈退屈だからちょっと外の空気を吸ってくる〉。
 そういうメモが残されていた。
 夜になっても戻らない彼を探して、わたしはアパートの周辺をさまよった。携帯に電話してみても電源が入っていないらしくつながらない。いつか彼を送った道を思い出しながら、彼の家の前にも行ってみた。網戸から明かりとテレビのナイター中継の音が漏れていた。2階の部屋にも電気が点いていたけれど、それが彼の部屋なのかどうかわからない。それより彼には兄弟がいたのだろうかと思い愕然とする。
 わたしは彼について何も知らない。
 彼の友達、彼の家族、彼の好きな音楽、彼が感動した本。わたしの部屋を一歩出れば、彼には彼の生活がある。そのどこにもわたしの入り込む余地はない。
 湿度を含んだ夜気の中で、わたしは孤独を噛みしめる。
 その気になればいつだって彼は自由になれる。わたしからも、家族からも。どこにだって行けるし、なんにだってなれる。彼の未来はまだまったくの白紙なのだから。
 アパートに戻り鍵を開ける。その一瞬、期待してしまう。「おかえり」といつもの笑顔が待っていることを。けれど、部屋は真っ暗で、残したメモがそのままの位置に置かれている。彼の戻った形跡はない。
 部屋は乱雑を極めていた。わたしたちの汗を吸い込んだシーツはしわを刻んでいる。ゴミ箱のカップ麺からは臭気が流れ出し、シンクには底に牛乳やコーラがこびりついたコップが残されている。
 床に丸く横になってみる。綿埃が目に付き、決して快適とは言えなかったけれど、それでも少しは安心する。
 下腹部に鈍い痛みが走る。
 姿勢のせいかもしれないと思い、起き上がってみる。けれど、痛みは徐々に速度を増し、額には脂汗がにじみだす。
 ウソでしょ。
 ベッドの縁に腰掛けてみたり、立ってみたり、ありとあらゆるポーズを取ってみるけれど、痛みはおさまらない。
 誰か助けて。
 鼓動が激しくなり、涙が流れる。
 携帯電話に手を伸ばした。安西君にはやはりつながらない。
 わたしは耕介の番号を押した。

 「緊急で診てくれる産婦人科というと……カミサンが出産した病院しか思いつかないけど、いいか? イヤなら他を探すけど」
 「どこでもいい」
 助手席のシートを倒し、わたしはハンカチを握り締めていた。
 中規模のその病院の面会用の裏口から入る。出てきた看護士に、妊娠の可能性があり出血していると告げると、すぐに医師を呼んできてくれた。
 受付で簡単な問診表を記入し、トイレで尿を採った。そして、すぐに診察室へ入る。これまでの症状を詳しく話した後、内診台へ上る。
 「ひどく出血してますね」
 そう言ったきり、医師は黙り込んでしまう。カチャカチャと器具の音だけが響いて、わたしは小さなため息を漏らす。まるで不安を吐き出すかのように。
 永遠かと思うような時間がようやく終わった。
 「妊娠はしていませんよ」
 「え……?」
 「ホルモンバランスの異常、それに夏バテ。あと少し貧血もあるね」
 「でも、今のこの出血と痛みは……?」
 「あなた、生理が遅れていたでしょう。それがいきなり来たもんだから、いつもよりちょっとひどくなったんだね。痛み止めと増血剤を出しておきましょう」
 拍子抜けした。緊張が急にとけて、すぐには立ち上がれなかった。
 呆然とした様子で診察室から出てきたわたしを見て、耕介が何かを言いかけて、やめた。
 帰りの車の中、わたしは初めて泣いた。泣きながら妊娠ではなかったことを話した。話すとまた次々と新しい涙が湧いてきて、静かな車内で洟をすする音だけが響いた。
 いつまでも泣き止まないわたしに合わせるかのように、車は市内をぐるぐると回っていた。ネオンが涙でにじみ、わたしの目にはきらきら光る宝石のように映った。
 「何か食べないといけないよ」
 耕介がファミリーレストランの駐車場に車を停めた。
 食欲はあまりなかったけれど、うどんと冷たいウーロン茶を頼んだ。
 「もう忘れろ」
 耕介が、ハンバーグを口に入れながら言った。
 「その高校生のことも、婚約者だったヤツのことも」
 「なんで? 今、鳩山さんのことは関係ないじゃない」
 「いや、関係あるね。お前、変わったよ。学生時代はもっと前向きでなんにでも積極的だった。 それが、俺と再会したときにはすっかり臆病者に変わっちまってた。そうなったのは、あの鳩山とかいうヤツのせいだろ? 傷つくのがそんなに怖いか? 去られるのがそんなにつらいか? 今回のこと、相手のガキには一言も相談してなかったんだろ。全部ひとりでおっかぶろうとしてたんだろ」
 「だって……彼は未成年だもん」
 「未成年ったって18だ。結婚だってできる。お前、本当に子どもができていたらどうするつもりだったんだ? そいつと結婚して産もうとはこれっぽっちも考えなかったのか?」
 「……考えなかった」
 「お前はな、逃げてるんだよ。人との関わりを避けてるんだ。不倫するのも未成年と付き合うのも、結婚という可能性を生じさせないためなんだ。結婚できる相手と付き合えば、いつか婚約するかもしれない。そのとき、また破談になるんじゃないか、また棄てられるんじゃないかと考えてしまうのがイヤなんだよ」
 「耕介に言われたくない」
 「それはわかってる。俺が言うのは一番不適切だ。でも今はそんなこといっている場合じゃないだろ」
 耕介はグラスのお冷を一気に飲み干すと、ウエイターにおかわりを頼んだ。
 「うちのカミサンさ、やっぱ自殺未遂だったみたいなんだ」
 「え?」
 「あいつ、俺とお前のことに気づいてた」
 「うそ……」
 「嘘だったらどれだけいいか。俺もビックリだよ。ある日突然実家に帰っちまったけど、俺は、よっぽど子どもの夜泣きがこたえてるんだろうなくらいにしか考えてなったんだよね。そしたらアイツ、俺の携帯を見たって言うんだ。それもメールの記録をさ」
 あの能面のような顔の奥さんが夜中にひとりで液晶画面を見つめている姿を想像する。それはあまりにおリアルで怖ろしく、一瞬鳥肌が立った。
 「あいつ、ずっと思いつめていたらしい。もともと表情の乏しいやつだから、怒ってたこととか悲しんでいたことにまったく気づかなかった俺も悪いんだけどね」
 「悪かったと思ってる。カミサンにもお前にも。自分に都合のいい行動ばかりとっていて、知らない間にふたりとも傷つけていた」
 「わたしは傷ついていないよ」
 「いや、傷ついてる。自分では気づいていないだけさ」
 耕介はナイフとフォークを置いた。じっとわたしを見据える。
 「なあ、いいか。よく聞け。お前は絶対幸せになれる。もう俺や高校生なんかと付き合うな。自分のやりたいこと、したいことから目を逸らすな。まっすぐ前だけ見つめて、生きたいように生きろ」
 帰りの車中、わたしたちは一言も話さなかった。話せば、未練がましいことを口にしてしまいそうだった。今になってようやく耕介の大切さがわかる。男とか女とかそういうんじゃなくて、人間として、友達としてどれほど大切だったか。
 あっという間に車はわたしのアパートの前に着いた。耕介はエンジンを切りもせず、私の方に右手を差し出した。
 わたしはその手を握り返しながら、耕介の手が意外と暖かいことを初めて知った。
 「今まで色々とありがと」
 「こっちこそ。俺がさっき言ったこと、絶対に忘れるなよ。この部屋に入ったら、真っ先に俺の携帯番号を消去しろ。それから高校生のも。そして、ぐっすりと眠って元気になったら、まずは部屋の掃除。とにかくゴミをたくさん出せ」
 「やりがいがありそうね」
 わたしは散らかった部屋を思い笑った。
 「しあさってで夏休みは終わりだ。それまでに新しい服を買え。ちょうど今はバーゲンシーズンだからたくさん買えるだろ。そして月曜日になったら、新しい服を着て、今までとは違う自分になって出社するんだ」
 わたしはコクンとうなずいた。耕介がそんなわたしの頭をなでる。
 「元気でな」
 「耕介も」
 わたし達は固く握手をした。

 翌日、耕介に言われたとおり部屋中を片付けた。時折生理通がわたしを苦しめたけれど、病院でもらった薬を飲めば楽になった。
 安西君とふたりで散らかした部屋だ。そこここに彼の物が、まるで犬がおしっこで自分の跡を残すように散りばめられていた。棄ててしまえば楽になるのだろうけれど、わたしは棄てなかった。彼の服、雑誌、歯ブラシなどを紙袋にまとめ、クローゼットの奥に押し込んだ。
 安西君からの連絡はなかった。彼の心にどのような変化が起こったのかはわからないけれど、それが彼の出した答えなのだろう。
 彼の肌のすべらかさが切なかった。想像よりも大きな背中が愛しかった。抱きしめると壊れそうなくらい繊細なように見えて、そのくせわたしをつかむ腕の力は抗えないほどに強かった。
 掃除をしながら、ぼんやりと彼を想った。そして時々泣いた。
 「さみしい……さみしいよ」
 声に出してみると、堰を切ったように涙が次々とあふれた。わたしが失ったものたち。その輝きはまだ手の中に残っている。形はないけれど。つかめないけれど。
 部屋が片付くと、すべてが初期化された。初めから何もなかったかのような錯覚にさえ陥る。
 土曜日にはクレジットカードを持って街に出た。デパートで夏物のバーゲンをやっている。特設会場の喧騒に混じり、乱雑に並べられた洋服に次々と手を伸ばした。買い物用に与えられた大きな透明のビニール袋の中は、色とりどりのカットソーやボトム、下着などでいっぱいになる。
こんなにたくさんの人に囲まれているのに、わたしは孤独だ。
 服だけでなく食器売り場も覗く。たち吉の夏物の器を買う。水着売り場は通過して、1階のカバン売り場でずっと欲しかった籐製のバッグを手に入れる。同じ階の靴コーナーでアナ・スイのサンダルを買った。
 地階に降りて、京和菓子の店で水羊羹を送る手配をした。姉夫婦宛だ。お中元には時期はずれだから無地のしにしてもらう。
 すべて終えるとせいせいした。
 近くのカフェに入る。店内は人であふれ、店員は忙しそうに歩き回る。まったくもって落ち着かない環境にもかかわらず、なぜかホッとした。運ばれてきた水を一気に飲み干し、アイスカフェラテを頼む。
 わたしの心は決まっていた。明日、朝一番で姉に電話をしようと思った。
                            (つづく)

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# by kimura-ian | 2006-06-16 16:32 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.15

 会社の夏休みが始まった。この休みの間にわたしは決めなければならないことが山ほどあった。まずは仕事のこと。そして子どものこと。
 近所の産婦人科に電話をかけ夏季休業の期間を訊いた。わたしの休みと完全に同じだった。堕ろすなら夏休みの間に済ませたい。他の医院を見つけなければ。
 そうは言いながら、わたしはまだ自分が妊娠していることに確信が持てずにいた。薬局に行き市販の妊娠検査薬を買えば済む問題なのに、それさえ怖くてできない。
 この出血が流産しそうな兆候だというのなら、このまま放っておけば流れてしまうのかもしれない。そうであればいいと思った。ある意味、願ってさえいた。
 わたしの夏休みをきちんと覚えていた安西君が、朝から大きな荷物を持って現れた。
 「どうしたの?」
 目を丸くするわたしに、ピースサインをしてよこす。
 「合宿」
 「合宿に行くの?」
 「んなわけないじゃん。予備校の合宿があるって言って家を出てきた。1週間お世話になります」
 ビックリした。何も聞いていなかった。
 「そんな悪知恵、いつのまに身につけたの?」
 わたしの厭味にも気づかず、彼は荷物を降ろす。
 「そういうわけだから、オレ、合宿の間はこの家から一歩も出られないんだよね。オフクロがその辺ウロウロしてるから」
 「軟禁状態ね」
 わたしはタウンページを片付けた。
 安西君が背後からわたしを抱き寄せた。
 「これでやっと独り占めできる」
 「そう? わたしはいつだって安西君のものだよ」
 「違うよ。いつもはカイシャに持ってかれてる。でも、これからの1週間は24時間全部オレのもの」
 くるりと回され向かい合う。唇が軽く触れる。ギリギリのところでつけては離すことを繰り返し、わたしは徐々にじらされる。
 いつのまにこんなにうまくなったんだろう。
 我慢しきれずにわたしの方から舌を差し入れる。彼の顔を両手で挟み、唇を吸う。鼻の頭に口づける。頬にキスする。耳たぶを噛む。首筋に下を這わせると汗の匂いがした。
 ベッドに押し倒され、二人で転げまわる。わたしが上になる。彼が上になる。くるくる、くるくる。
 「朝っぱらから」
 そうつぶやいたときには、すでにふたりとも着ているものを床に落とした後だった。あわててカーテンを閉める。
 「まだ生理?」
 おりもの専用シートにうっすらとついた血痕を見て彼が問う。
 「もう終わりかけ。大丈夫よ」
 「よかった」
 彼はわたしをキッチンに立たせると、後ろから首筋を舐めた。左手はわたしの乳房をつかみ、右手は叢の間をさまよう。
 「すっごい濡れてる」
 その巧みな指は貝を開き、雫をたぎらせた深みの中にどんどんと吸い込まれていく。
 「声出さないで」
 耳元でささやかれてハッとする。わたしはいつのまにか猫のような声をあげている。
 じらすだけじらして、彼はなかなか入ってこなかった。
 「入れてほしいの? 欲しいなら〈お願い〉って言えよ」
 わたしは子どものようにイヤイヤをする。
 すると彼の指使いはますます激しくなり、わたしはうめき声を漏らす。
 「ほら、近所に聞こえるよ」
 彼は左手でわたしの口を押さえる。耐え切れずにわたしは、その指先に喰らいつく。指の1本1本を口に含み、丁寧に愛撫する。彼の手を両手でつかみ、人差し指に軽く歯を立てる。そして言う。
 「お願い」
 彼のうめき声が聞こえた……と思った次の瞬間、わたしの中に彼が入り込んだ。腰を突き出した姿勢でわたしは、それでも一瞬冷静に「コンドーム」と思ったが、口にはしなかった。
 「血がついてる」
 抜いたペニスをティッシュで拭きながら彼が言った。
 「処女だからね」
 ふざけて返すわたしの頭をこづき、彼が「一緒にシャワー浴びようよ」と誘う。
 わたしは少し驚きながらも、うんと頷いた。
 お互いの手で身体を丁寧に洗いあった。洗いながら何度もキスをした。
 「愛してるよ」
 と言われ、
 「わたしも愛してる」
 と告げた。まるで大事な秘密を漏らすように。
 その声は窓のないバスルームの中で反響し、まるでふたりしか存在しない世界のようにわたしたちの孤独を引き立てた。
 このままずっとここから出たくないと思った。たぶん安西君も同じことを思ったのだろう。わたしたちはふやけるまでそこにいた。そして狭さにも負けず何度も愛し合い、昼過ぎに倒れこむようにベッドに戻った。そして夜まで眠り続けた。

 姉に呼び出されて、以前姉が義兄と別居中に住んでいたマンションに行った。しかし、そこは以前の面影もないほど変わっていた。
 部屋の中央にはドアと対面する位置に大きなデスク。その上にデスクトップ型のパソコンとプリンター。窓にはブラインドがかけられ、来客用のソファがでんと鎮座している。壁一面の本棚には、ファイルや本がぎっしりと収納されていた。
 「オフィスらしくなったでしょう」
 姉は満足そうに微笑んだ。
 「玄関にかけるプレートと名刺も出来上がってるの。挨拶状の印刷も済ませたし、あとは宛名を書いて投函するだけ」
 蓮ちゃんがキャッキャとはしゃぎながら走る。その存在に違和感を覚えるほど、この部屋はすっかり仕事の匂いを発していた。
 「で、結論は出してくれた?」
 姉は、わたしをソファに座らせ、ペットボトルのお茶をグラスに注ぐ。
 「……まだ」
 「リミットは先週末だったはずよ」
 「ごめん、色々あって」
 「こっちにも都合ってものがあるんだから、ダメならダメって早めに言ってほしいの。どう? うちの事務所に来てくれる気持ちは何割くらいあるわけ?」
 「さあ……。五分五分くらい」
 姉は「話にならない」という風に両手を挙げた。
 「日曜日まで待つ。それで返事がなければ、別の人を探すわ。それでいい?」
 わたしはコクンと頷いた。
 「ところで、風ちゃん、痩せたんじゃない? 顔色悪いけど大丈夫?」
 ギクッとした。けれど、顔には出さず「平気、平気」と微笑む。
 「ちょっと夏バテしたみたい。食欲ないし」
 「あら、そうなの? これから一緒に食事しようかと思っていたんだけど」
 「今日は帰る」
 部屋で待つ安西君を想った。短パンにTシャツ姿で、たぶん雑誌を眺めてる。それともテレビを見ているか。
 夏休みに入って5日間、わたしたちはほとんど家から出ずに過ごしていた、何も身につけずに気まぐれに愛し合った。一晩中抱き合う日もあれば、真昼になっても起きない日もあった。外に出られない彼の代わりに、食料品などはわたしが買いに出た。それも、5日のうち2回だけだ。
 今日、姉から電話がかかったとき、わたしは一瞬断ろうかと思った。姉のオフィスを訪れることを、ではなく、仕事のオファー自体を、だ。わたしの部屋はまるで子宮のように安らかで満たされていた。わたしと彼は双生児で、ふたりだけの世界を楽しんでいた。わたしたちは、どんな下界からの干渉も受けたくなかった。それがたとえわたしの将来を決める重要なことであっても、今は考えたくなかった。姉に会わずいれば、毎日のように電話がかかってくるのは明らかだったから、いっそのこと仕事を断ってしまおうと思ったのだ。
 けれど、わたしはそうしなかった。ほんのひとかけらの未練が、わたしをここに向かわせた。この仕事を受ければ、姉のようになれる。いや、姉そのものになれるのだ。
 「約束よ。必ず今週中に返事して」
 念を押す姉を残し、わたしは部屋へと急いだ。
 妊娠してるとして。
 もし産もうとするならば、わたしはひとりで産まなければならない。たったひとりで。そうなれば、今更転職している場合ではない。収入が減るとわかっていて、子どもとふたりの生活を預ける気にはなれない。
 では、産まないとすれば? それなら処置は早くしなければならない。こうしている間にも胎児はどんどん成長している。
 処置さえすれば、転職しても何も問題はない。これまでと同じように生活が続くだけだ。しかし、本当に何も変わらないのだろうか。堕胎はわたしを狂気に走らせはしないか。それに、安西君に何も知らせずにわたしたちの子どもを殺して、それでもわたしは平気な顔をして彼と会えるだろうか。そして、そんな精神状態で、わたしは新しい仕事に向かえるだろうか。
 そう考えると、産むにしろ産まないにしろ、姉の事務所に行くのは不可能なような気がした。
 妊娠していないという可能性は、残念ながらほとんどない。食欲は日を追うごとになくなり、常に吐き気がするようになった。出血は、夏休み最初の日に安西君と抱き合ったあと止まった。もちろん生理らしいものも来ない。
 立ち止まり、お腹に手を当ててみる。君はそこにいるの? そう心の中でつぶやいてみる。自然と涙が流れた。
                      (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-05-25 22:33 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.14

 部屋に戻るといつものように安西君が寝転がってビデオを見ていた。レンタル店の青い袋が口を開けて床に落ちている。私の持っているビデオはすでに制覇してしまい、こうして毎日新しいビデオを借りてくるのだ。
 食卓の上には冷麺がふたり分用意されている。ガンガンに冷やされた部屋で、今はむしろ温かいものを口にしたいというのに。
 「エアコン、切るよ」
 朝からずっと運転を続けていたのだろう。リモコンを押すとまるでため息のような音を残しモーターが止まった。
 窓を開け、かび臭い空気を入れ替える。
 ほんの少し吐き気がする.わたしはバスルームで念入りにうがいをした。ついでにトイレを済ませると、下着につけたおりもの専用シートにまたかすかな出血が見られた。
 これでもう3日目だ。遅れている生理がようやく来たと思ったら、量が異様に少ない。軽いのは助かるけれど、あまりにも軽すぎると心配になる。このままダラダラと続くのなら厭だなぁ。明日あたりドカンと来るかもしれない。多い日用のナプキンはあっただろうかと棚の上を確認する。
 「今日も予備校行かなかったの?」
 うつぶせたままいつまでもビデオを見続ける安西君に声をかけてみる。が、返事はない。画面には殺戮のシーンが繰り広げられ、わたしは思わず視線を逸らす。
 室内はあっという間に蒸し暑さが入り込み、着替えたばかりのタンクトップは汗を吸い始める。
 最近、本気で心配になり始めた。安西君は本当に勉強しなくて大丈夫なのだろうか?
 以前はこうではなかった。うちに来ていても、わたしがそばにいても、必ず勉強道具を持参して問題集を解いたりしていた。夏休みといえば、受験生にとって合否の分かれ道ではなかったか? その過ごし方によって確実に偏差値に差がつくはずなのに。
 何を言っても聞こえないらしい彼を無視して、ひとりで冷麺を食べる。トマトが熟れすぎている。甘さが舌に残り、あわてて冷蔵庫からエビアン水を取り出す。
 「どうせなら冷蔵庫で冷やしておいてくれたらよかったのに」
 そうつぶやくと、
 「あ、そうそう、お鍋の中に味噌汁があるから温めて」
 と、わたしが帰宅して初めて、彼の声が聞けた。
 茄子の入ったお味噌汁。温めて2つのお椀に入れる。
 「一緒に食べようよ」
 画面はようやく最後のテロップになっていて、安西君は素直に食卓についた。
 「あー、おもしろかった」
 「何見てたの?」
 「ターミネーター」
 彼は冷麺にかけてあったラップをはずし、一口食べて「ぬるい」とつぶやいた。冷凍庫から氷を持ってきて「風花さんもこうしたらいいんだよ」とそれを麺の上にのせる。
 「予備校に行ってよ」
 「なんで? オレが家にいるのイヤ?」
 「そういうんじゃなくて。今頑張らないと本当にまずいよ」
 「何が?」
 「受験」
 茄子の入ったお味噌汁に口をつける。豆の匂いがもわっと立ちのぼり、思わずわたしはトイレに駆け込んだ。
 「大丈夫?」
 不安そうな声が背後から聞こえる。
 胃の中のものを全部出すと少し楽になった。口をゆすぎ、そのままユニットバスの縁に腰を下ろす。
 「ねえ、風花さん、もしかして……」
 安西君が開けたままのドアの前に立ち、棄てられた子猫のような目で見下ろす。
 「大丈夫だよ。何心配してるの」
 口角を上げ明るい声でそう返したけれど、彼の表情は強ばったままだ。
 「だよね。だって、ちゃんと避妊してるもんね」
 自分に言い聞かすようなそのセリフは、わたしの心の脇をスッとすり抜けてしまう。そして、なぜか彼が急に気の毒になり、安心させるようなことを言わなくちゃと思う。
 「わたし今、生理中なんだ。生理のときって時々こういう風に気分が悪くなるの」
 ニッコリと笑顔を送る。ようやく彼は安心したように微笑を返す。
 「そっか。じゃあ、大丈夫だね」
 「うん。もしかしたら夏風邪をひいてるのかも。とにかく今日は早く寝るわ」
 「じゃあ、オレも今日はこれ食べたら帰る」
 わたしたちはあわただしく食事を済ませ、チュッとキスをした。
 「エッチできなくて残念」
 そうささやく安西君に、
 「わたしの身体が目当てなの?」とふざけて言う。違うよ、とあわてて否定する手つきがおかしくて、わたし達は声をあげて笑う。
 ああ、楽しいし、幸せだ。
 彼が帰った後の部屋で、デッキからビデオを抜き取り、レンタル店の袋に戻そうとして、中にもう一本ビデオが入っていることに気づいた。明らかにAVとわかるそのタイトルに苦笑する。
 注意すべきだろうか、それとも黙認するか。
 わたしはそっとそのビデオを袋にしまった。
 
 奥さんが一般病棟に移ったと耕介から連絡があった。頭に異常はなかったらしい。
 「よかったね」
 と言うと、
 「ま、これを機にこれからは家庭のために生きるわ」
 とサバサバしたような口調で言った。
 「寂しくなるわ」
 わたしがそう言うと、
 「よく言うよ」
 と豪快に笑う。
 合わせてわたしも笑ったけれど、心にぽっかり開いたような気持ちは消えなかった。
 それから1週間が経った。
 あいかわらずわたしは微量の出血していた。その話を姉にしたところ、婦人科に行けとしきりに言う。
 「不正出血はなんらかのシグナルなのよ。子宮筋腫とか子宮ガンとか、何かしら異常があるから起こるの。そういえば風ちゃん、子宮ガン検診は受けてるの?」
 「ううん。会社から行けっていう文書が来ていたけど、なんだか億劫で」
 「ダメよ。30を過ぎたら、最低でも1年に1回は受けなくちゃ。診てもらうついでに検診も受けてきなさい」
 まるで母親のようにまくしたてる姉を適当にあしらって受話器を置いた。
 西田さんも同じように婦人科の診察を受けた方がいいと言っていた。けれど、わたしはどうしてもそんな気になれない。婦人科というところはテレビでしか知らないけれど、あの独特の内診台は異様だし、妊娠もしていない女性が行くにはあまりにも勇気がいる場所のような気がする。
 妊娠もしていない……?
 わたしは本当に妊娠していないのだろうか。あわてて本屋に向かう。「家庭の医学」のコーナーに「婦人科」という棚を見つける。手当たり次第にページをめくる。
 生理ではない出血がある場合。
 姉の言うように、子宮筋腫や子宮ガン、あるいは子宮内膜症などが疑われるという記述と並んで、もし妊娠の可能性がある場合は切迫流産の疑いがあるのですぐに受診をするようにと書かれてあった。
 流産?
 生理が来るはずの日から2週間が経っていた。
 わたしは、さらに「妊娠・出産」の棚から本を抜き出す。そして、生理周期から受胎日を割り出す表に自分の場合を当てはめてみる。
 相手は安西君以外ありえない。
 でも、待って。わたしたちはちゃんと避妊をしていたはずだ。コンドームをつけずにセックスするなんてことは一度もなかった。
 お腹の大きな女の人が「すみません、いいですか」とわたしの前にある本を取りたそうにした。
 「ああ、ごめんなさい」
 場所を譲り、呆然と立ちすくんだ。
 行為の最終的な段階では必ずつけていたけど、最初の戯れの間にはつけなかったことが何度かある。
 「ダメよ」
 両手で制するわたしを羽交い絞めにして、無理矢理足を開かせたのはいつのことだっただろう。クスクスと笑いながらしまいには降参してしまい、「初めだけよ」と受け入れたのはわたし。
最後に放出するときでなくても妊娠の可能性はあると女性誌で読んだことがある。あるいはコンドームが破れていた……?
 どっちにしても、100パーセントの避妊なんてありえない。
 目の前が真っ暗になり、その場にしゃがみこんだ。さっきの妊婦が何か声を掛けてくれていたがまったく聞こえず、わたしはそのまま気を失った。
                   (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-05-22 16:39 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.13

 試験休みが終わり、本格的に夏休みがスタートして、安西君は不満気だ。
 当たり前だが、会社員に学生のような長期の夏休みはない。わたしたち会社員の呼ぶ「夏休み」とは、お盆を挟んだ数日の連休であって、7月末から8月全部を丸々休めるようなものではないのだ。
 彼がその事実に気がついたのは、彼の夏休み3日目のことだった。
 「ねえ、風花さん、いつから休めるの?」
 出勤前にあわただしく朝食をとり、サマースーツに着替えるわたしを眺めながら、彼はのんびりとした口調で言った。彼は、早朝から「予備校に行く」と親に嘘をつき、こうしてわたしの部屋に「通学」しているのだ。
 「8月10日だったかな」
 わたしはカレンダーをめくりながら答える。
 「え!? まだまだじゃん。じゃあ、いつまで?」
 「18日」
 「たった1週間!?」
 「そうだよ」
 「ウソ、短すぎ!」
 「そんなもんだよ、どこも」
 「じゃあ、オレが毎日通っても、意味ないってこと?」
 急いだせいでおろしたてのストッキングを伝線させてしまったわたしは「クーッ」と舌打ちをした。
 「じゃあ、真面目に予備校に行こうかな」
 「その方がいいよ。じゃあ、いってきます!」
 わたしたちは玄関先でチュッと口づけを交わす。まるで新婚夫婦のように。
 出勤していくのが女のわたしで、見送るのが彼っていうのがいいよな、現代的で。
 などと思いながら、満員電車に揺られる。いつもでさえ乗車率200パーセントくらいにはなっているんじゃないかという不快さなのに、夏休みに入って満員電車のルールを知らない子どもや主婦達の乗車が目立つようになった。彼らは調和を乱す。揺れたときは揺れに身を任せた方がいいことさえ知らないので、逆向きの圧力がかかり、そこここで不協和音が生じている。しかもこいつらはうるさい。立ったままでもいいから眠りたい……という出勤前の時間なのに、朝からハイテンションでしゃべりまくる。山へ行こうが海へ行こうが勝手だが、公共の場では静かにしてもらいたい。
 会社につく頃には、わたしはすでにヨレヨレに疲れていた。ロッカールームでは西田さんが涼しい顔をしてわたしを待ち受けていた。
 「わたし、異動することになったの」
 仕事開始前のあわただしい中ではゆっくりと話を聞けず、わたし達は「詳しくはお昼休みに」と言い合ってデスクについた。
 組織図から消されるのはわたしの部署だけではなかった。西田さんのところは5名という「部」と呼ぶにはあまりにも小さな部署だったので、真っ先にその対象となった。吹けば飛ぶような組織の中に、彼女は20年近くもいたのだ。その忍耐強さにわたしは脱帽したくなる。
 わたしの部署では、すでに半数が転属先の打診を受けていた。本社を離れ畑違いの営業部門へ行く者が多数で、これまでのキャリアを生かせる人はほとんどいない。日本の会社ってつくづく理不尽だと思う瞬間だ。わたし達は「就職」したのではなく「就社」したわけだ。
 ようやく昼になり、いつものメンバーが集まる。
 「わたし、健友会に行くことになったの」
 「え?」
 誰もが顔を見合わせた。なんだそれ? という表情が飛び交う。
 「2階にあるじゃない」
 「あったっけ?」
 「知らなーい」
 会社の持ちビルであるこの建物の2階はテナントになっていて、めったなことでは立ち入ることはない。
 「退職者をとりまとめる部門。……というか、同窓会みたいなものね。これまでにうちの会社を定年退職していった方々の居場所」
 「そんな部署があったなんて知らなかった」
 「正式には人事部の一機関なんだけどね」
 「何をするところなんですか?」
 「退職者の名簿を管理したり、イベントを開催したり。談話室もあるから、遊びに来られた退職者をもてなしたりもするみたい」
 「なぜ会社がこんなに非常事態のときにそういうところから閉鎖しないのかしら?」
 鼻息荒く言ったのは、わたしの隣に座っている先輩だった。
 「こういうご時世だからこそ、なんじゃないかな。先に希望が持てないときだからこそ、定年された方をねぎらうことによって、今いる社員に希望を持たせたいんだわ」
 西田さんは静かにそう言った。
 「どうしてそこに?」
 わたしの問いに、彼女は微笑みながら答えた。
 「希望したの、わたしが」
 誰も何も言わなかった。西田さんはひとりで話し始めた。
 「ほら、わたしってこの会社に入って長いでしょ。これでいて結構顔が広いのよ。今いる人だってほとんど知ってるし、定年された方もほとんど覚えてる。その〈能力〉を生かさない手はないじゃない。それに、わたし、人と接するのが好きだし。ちょうどこれまで健友会で事務をされていた方が今月末で退職されると聞いて、立候補したの」
 「でもそれって……」
 言いかけて口をつぐんだ後輩が、おずおずとその続きを口にした。「左遷……じゃないんですか?」
 「もしこれが立候補したのではなく、人事部から突然辞令を突きつけられたらわたしだってそう思ったかもね。でも、実際は違う。わたしが望んでそうするの。たとえ社内の評価は低くても、わたしがそうしたいの。誰がなんと言おうと。これまでこの会社を支えてくださった方々をねぎらうことは価値あることだとわたしは思う。究極のサービス業なのよ」
 前に西田さんが言っていた「チャンス」とはこのことだったのだ。
 「小菅さんは決まった?」
 先輩が小声で遠慮がちに尋ねる。わたしは力なく首を振った。
 「そう……不安ね」
 わたしはアメリカ人のように両肩をあげておどけて見せた。しかし、そのときわたしにはまだ誰にも話していない選択肢があったのだ。
 そのオファーがあったのは、数日前のことだった。
 姉に呼び出され、久しぶりにふたりで外で食事した。わたしが何度か行ったことのある無国籍料理のレストランで、姉は「夜、外食するのは久しぶり」とはしゃいだ声を出した。
 姉は、わたしに、義兄の会社に入る気はないかと言った。
 姉は、前に姉の借りた部屋で話したとおり、自分の将来について2つの道を決めていた。ひとつは、離婚したうえで義兄の会社に残ること。もうひとつは、結婚生活を続ける代わりに会社を離れフリーで仕事を続けること。
 「あの人の会社で働く上で、わたしは彼の妻であるという立場との両立は苦しすぎる。精神的にってことだけどね」
 姉はそう言った。義兄を嫌いになったわけでも、会社が嫌いになったわけでもないと言う。
 「風花が言ったように、あの人に育児をさせなかったのはわたしの責任だわ。どうしても〈うちの会社の社長〉という目で見てしまうから、そんなことさせられないと思っちゃうのね。だから、今後も結婚生活を続けるなら、同じ職場ではまた元の木阿弥になると思った」
 蛸のリゾットを食べ終え、デザートを選ぶ。わたしはゴマのプディングにし、姉は杏仁豆腐を選んだ。
 あれからようやく姉は義兄と話し合うことができたという。
 「結婚してから、そんなに真剣に長い時間会話したのは久しぶりだったわ」
 少し嬉しそうに姉は笑った。
 義兄は「離婚だけは絶対にしたくない」と言ったそうだ。
 「あの人ね、真面目な顔して言ったのよ。お前を失いたくない、愛してるんだって」
 口元に運んだスプーンをしばらく宙に浮かせたまま、姉は思い出し笑いをした。「ウソみたいでしょ」
 のろけている姉はなんだか可愛かった。そういうふうに自然に微笑む姿を久しぶりに見たように思う。
 「わたしのとった行動は確かに軽率だったと思う。でも、彼にとっては効果的だった」
 離れて暮らしてみて、失いたくないものが何であるか義兄はハッキリと知ったのだ。おそらく姉も。
 姉が会社を去ることになり、問題なのは会社にコピーライターがいなくなることだった。
 「求人広告を出せば済むという問題でもないのよね」
 姉は隣のカップルを眺めながら言った。
 「前に一度募集したことがあるんだけど、応募してくる人間の半分は未経験者なの。横文字稼業に妙な憧れがあるらしくて。もちろんそういった人は採用できない。で、残りの半分は、というと、これもまた結構使えないのよね。この業界の人間ってプライドが高かったり変な個性があったりで。一番いいのは知っているコピーライターを引き抜くことなんだけど、うちはそれほどの力もないからねぇ。もし来てもらえても、前いた会社ほどのお給料は出せないし。……あ、そうそう、あなたにも言っておかなくちゃいけないんだけど、うち、給料安いわよ。今いる会社よりうんと」
 「うんとって……どのくらい?」
 わたしはおずおずと訊いた。姉が示した金額は、わたしが今もらっているお給料の3分の2だった。しかもボーナスはない。
 「それでもいいって思うのなら、ぜひ来てちょうだい。やりがいだけはあると思う。わたしを見ていたらわかるだろうけれど、呼びつけられたら何時だって行かなくちゃいけないし、土日もないかもしれない。でも、今の会社では風ちゃん、よくない表情になってきてるよ。本当にやりたい仕事を見つける最後のチャンスじゃない?」
 姉は会社の役員からも退くという。今後は妻としてだけ、義兄と接したいのだと言った。
 「これからはあの人にもバンバン蓮華の面倒を見てもらうつもり。わたしもフリーになればそれこそ土日もなくなるから、あの人のサポートなしでは立ち行かなくなると思う。仕事的には今よりもっと大変だからね。それでも、家庭を守れて、今よりやりがいがあるから、わたしは踏み切れるの」
 その方が蓮華のためでもあるのだから、と。
 「前に風ちゃんにコピーを書いてもらったわよね。あれ、あなたは加藤さんのことで誤解していたけど、本当はあなたの力を知りたかったからなの。あの頃から、心のどこかで自分の代わりを探していたのね。正直言って、コピーを実際に見るまでは、あなたに来てもらおうなんてこれっぽっちも考えてなかった。でも、見てみたら、ああそういう手もあるんだって気づいたの。お世辞じゃなく本当によかったわ。あの人も風ちゃんの才能は認めてる。ただ、もう少し仕事に欲を持ってくれればいいとは言っていたけどね」
 唐突な姉の申し出に、わたしは混乱していた。
 本当にやりたい仕事って何なんだろう?
 わたしはこれまでそれについて考えてこなかった。考えまい、考えまいとして生きてきたと言っても過言ではない。無難にやっていれば居心地よく会社にいられたし、問題さえ起こさなければそれなりに昇給もした。でも、景気が悪くなり会社が傾き始めた今、このままの姿勢ではいられない。
 わたしは、転職に関してはしばらく考えさせて欲しいと告げた。姉は8月末で退職するという。それまでまだ時間がある。
 どんな未来を選ぶにしても、自分の意思で、それも強い意志で選ばなければダメだ。だからこそわたしは迷っていた。
                          (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-05-02 16:45 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.12

 耕介から連絡があったのは、7月も下旬に入った昼休みのことだった。
 会社はますます景気を悪化させ、従来は7月の第1金曜日に出るはずのボーナスが、第2金曜日に持ち越された。そんなことは創業以来初めてだという。遅れて支払われた上に、額は昨年より2割ダウンしていた。それでももらえただけマシだとささやく声が主流になるほど、経営状態は目に見えて落ち込んでいた。
 これまで食堂を利用していたわたしたちも、ついにお弁当を持参することにした。ひとり分の料理は意外と効率が悪く食堂で食べる方がかえって経済的かもしれなかったが、西田さんが手弁当を始めたので仕方なかったのだ。わたしたちは食堂には行かず、わたしと西田さんの部署の間に設けられているミーティングコーナーのテーブルでランチタイムを過ごしていた。
 電話が鳴ったのは、食事を終え、西田さんお手製のクッキーを食べているときだった。
 もっとも近くに座っていた西田さんが電話を取り、「小菅さん」とわたしを呼んだ。
 「外線で、門坂様」
 一瞬誰のことだかわからなかった。それが耕介であることに気づいたのは、受話器をとってからだ。
 「どうして携帯にかけなかったの?」
 小声でとがめるように出てしまってから、ぶっきらぼうに「久しぶり」と付け加えた。
 「ゴメン、ちょっと急用だったから。会社にいる間は携帯、切ってるだろ」
 「それなら会社のパソコンにメールしてくれればよかったのに」
 「今すぐに話したかったんだよ」
 荒げた声は、たぶん受話器から漏れたのだろう。西田さんたちが一斉にこちらを見た。
 「ちょっと、大きな声出さないでよ」
 「あのさ、今から出られない?」
 「え?」
 壁の時計は12時45分をさしていた。
 「無理よ。もうすぐ昼休み終わる」
 わたしは苛立っていた。午後から部内のミーティングがある。そこで部長から重大な発表があるということだった。いつもなら電話番に女性がひとり残されるのだが、今日は全員出席だという。会議には必ず出されるお茶も、今日はいらないらしい。とにかく何があろうと1時15分には第2会議室に集合しなければならないのだ。
 しかし、耕介の次のセリフを聞き、わたしの胸はドクンと鳴った。そして次の瞬間、すべての音が消えた。
 「カミサンが死にかけてる」

 そこに入るとツンとアルコールの匂いがした。外来診察は午前中で終わるため、通常使用する出入り口は閉ざされている。わたしは緊急外来のドアの手前で立ちすくんだ。ここでは携帯電話は通じない。おそらく奥さんの両親と一緒にいるであろう耕介を呼び出す手段は、今のわたしにはない。
 なぜ来てしまったのだろうと思った。
 会議には出席した。部長の話は唐突で、誰もが驚くべき内容だった。わたしのいる部署が廃止される。つまり解散するというのだ。それも来月いっぱいで。その後のわたしたちの行く先は未定。部長の発表の後、誰もが口々に自分たちはどうなるのかと声高に叫んだ。そんな混乱の中、わたしはそっと席を立ち、「具合が悪いので帰ります」と課長に耳打ちして帰ってきたのだ。課長は何も言わなかった。わたしが席を立ったことなど、誰の目にも留まっていないだろう。
 呆然とドアを見つめているドアがスッと開き、耕介が現れた。
 「悪いな」
 彼は多少やつれて見えた。どんなときも陽気な笑顔を絶やさなかった人が、こうして憔悴している様は、あまりにも現実感がなかった。まるで学園祭で上演する下手な芝居に出ているかのようだ。
 「奥さんは?」
 「ICUに入った」
 「一体何があったの?」
 わたしたちは人目を避けて、病院の隣に併設されている老人保健施設に向かった。そこはあまりにも小ぎれいで、あやうくリゾートホテルかと勘違いしてしまいそうになる。うっすらと漂う老人臭が、唯一その役割を主張していた。
 1階にある喫茶室に入る。お客は誰もおらず、外からの明るい日差しに満ち溢れたそこはサンルームのようだった。家庭からそのまま抜け出してきたようなピンクのエプロンをかけたウエイトレスが注文を訊く。わたしはアイスコーヒーを、耕介はアメリカンを頼んだ。
 耕介が語った内容はあまりにも断片的で、よくわからなかった。おそらく本人もわかっていないのだろう。
 奥さんは自分が運転する車で事故を起こした。見通しの悪いカーブでガードレールにぶつかったという。現場には、ブレーキ跡がなかった。警察は「ボーっとしていたか、もしくは居眠り運転だったんでしょう」という見解を示した。けれど、耕介は、その日に限って奥さんが子どもを同乗させていなかったことが気にかかると言う。いつもなら、どんな近くへの用事であっても、子どもをひとりでうちには置いて行くはずがないと。
 「お子さん、家にひとりでいたの? まだ生まれて間もないのに?」
 それって虐待では……と言いかけて、今はそんなことを言っている場合ではないと思い口をつぐんだ。
 「置いていったのは俺たちの家じゃなくて、カミサンの実家なんだけどね。俺たち、別居してたんだ」
 「え……?」
 わたしは唖然として耕介を見つめた。一度も手をつけられないコーヒーカップから、湯気が、まるでタバコの煙のように細く流れていた。
 「それっていつから?」
 「半年くらいになるかな」
 「じゃあ、出産してからずっと?」
 「いや。産後1ヶ月は実家で静養していたけど、その後一度は戻ってきてたんだ。でも、また実家に帰った」
 「どうして……?」
 耕介は、さあという風に首を傾げた。ごまかしているというよりは、本当にわからないようだった。
 「カミサンの両親はふたりとも教師で今も現役だから、平日の昼間は誰も家にいないんだよね。だから実家にいるメリットは何もないはずなのに」
 「事故に遭ったときは、お子さんをひとり実家に残して出かけたわけね。いつもそんな風にしてたのかしら?」
 「いや、そんなことするやつじゃないんだけど」
 「ちょっと近所まで買い物だったんじゃない? ほら、油を切らしたりして、お子さんがお昼寝してたからつい……とか」
 日頃、蓮ちゃんの世話をすることの多いわたしは、なんとなくその様子が想像できる。
 「どうだかな……」
 「で、奥さんの容態は?」
 「うん、今は眠ってる。シートベルトをきちんと締めていたから骨折とかはないんだけど、ハンドルで頭をぶつけたらしくて。頭の検査が済んだら、たぶん一般病棟に移れるって聞いた」
 「さっきの電話では、死にかけてるとか言ってたじゃない」
 「ゴメン、ちょっと動揺してた。あの時はまだ病院に着いてすぐだったし」
 わたしたちはしばらく無言でガラス張りの窓の外を眺めた。一面芝生で覆われた中庭は、立ち入り禁止なのか誰の姿も見えない。素焼きの鉢に植えられた花々が夏の日差しを浴びてその色を鮮やかに放つ。
 「まぶしいね」
 目を細める耕介の横顔は、すでにわたしの知っているそれではない。いつのまにこんなに大人になってしまったんだろう。彼も、わたしも。
 「アイツ、気づいてたのかもしれないな、お前のこと」
 ポツリとつぶやいた一言が胸に刺さった。
 奥さんの両親が待っているからと早々に席を立った耕介を見送り、わたしは喫茶室に残って氷の解けたアイスコーヒーをストローでもてあそんだ。
 耕介はずっとひとりだったのだ。平日の夜も週末も。奥さんが待っているからと決して泊まらずに帰ったのは、すべて嘘だった。あるいは演技。
 寂しかったんだろうか。
 そう考えるとすべての説明がつくけれど、うちに通う耕介の表情からは寂しさの欠片も感じ取れなかった。それよりもずうずうしさ、無邪気な明るさ、無防備な笑いだけが心に残る。
 奥さんがわたしの存在に気づいていた? もしそれが本当だとしたら、その時点でわたしは「不倫」を犯していたことになる。誰かを傷つけた瞬間から、犯罪は存在するのだ。
 狂気について考えてみる。たとえば奥さんが、わたしと耕介が愛し合っているとかそんな見当違いな想像を膨らませたとして。その想像がどんどんと膨れ上がって、自分の手に負えないほどに成長したとして。いつしかそれに圧迫されて、窒息しそうになって、それから逃れるために自分自身をガードレールに向かわせたとしたら……?
 狂気の原因を作ったのはわたし。わたしはやはり犯罪者なのかもしれない。
                          (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-04-27 16:36 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.11

 「小菅さん、3番にお電話です」
 隣の席の男性社員が受話器をよこした。
 「誰?」
 「外線で鈴木様。お友達だっておっしゃってましたけど」
 不審な表情を隠せないまま受話器を受け取る。鈴木なんていう友達はいない。本当に知り合いなら、会社ではなく携帯電話にかけるだろう。友達だと言ってこうして職場にかかってくる電話のほとんどは、たいていセールスの電話なのだ。
 「お電話代わりました。小菅ですが」
 心なしか声が無愛想になる。わたしが出ると、相手は一瞬黙り込んだ。
 「あの、オレ。鳩山です。ごめん、偽名を使わせてもらった」
 「……どういったご用件でしょうか」
 周囲の誰にも気づかれないように、ビジネスライクに会話を続ける。
 「今日、会えないかな。近くまで来てるんだ」
 「申し訳ありませんが興味がないので」
 あくまでもセールスの応対をしているかのように話しながら、わたしの心臓は早鐘のように鳴っていた。
 「ごめん、話しにくいんだよね。じゃあ返事はしなくていいから、こっちの言うことだけ聞いてくれる? 今夜6時に駅前のコーヒーショップにいる。もしよかったら来て下さい。何時まででも待ってるよ。念のため携帯の番号を言っておくね」
 鳩山の告げる番号は無意識のうちにメモされていた。左手に受話器を持ったら、右手にはペンを持つ。新入社員のときに仕込まれた条件反射が、こんなところで役に立つ。
 定時になり私服に着替えると、わたしはトイレで念入りに化粧直しをした。いまさら鳩山の心を取り戻す気はさらさらなかった。ただ、2年の間に老けたと思われることだけは避けたかった。わたしを捨てたことを彼に悔やませたい。
 6時を10分ほど過ぎて着くと、鳩山は窓際の席に座っていた。最後に会ったときより心なしか少し太ったようだ。
 「久しぶり」
 わたしが近づくと鳩山はまぶしそうに目を細め、そしてかすかに笑った。
 場所を変えて食事でもしようという彼を押しとどめ、わたしもカウンターでコーヒーを買って席につく。
 「今夜は遅くなれないの」
 「ご両親が心配する?」
 「家は出たの。今はひとり暮らし」
 「彼氏でも来るの?」
 「そうよ」
 外を歩く人々が足早に地下鉄の入り口に消える。ふとこんな場所でいたら誰かに見られるかもしれないと気づき、辺りを見回したが、誰一人わたしたちを気にする人はいなかった。誰もが家路を急いでいる。他人のことなんて気にする人はいない。
 砂糖もコーヒーフレッシュも入れずに飲むわたしを、鳩山は驚いたように見つめる。
 「ブラックで飲むようになったんだ。昔は全部入れてたのに」
 それには答えず、わたしは「メール読んだよ」と言った。
 「ああ、よかった。返事がなかったから、間違えて別の人に送ってしまったかと思ったよ」
 会話はまるで伸びたうどんのようにブチブチと途切れる。
 「鳩山さん、今、何してるの?」
 苗字で呼ぶのは変な感じがした。
 「小さな会社の営業。オフィス向けの事務用品なんかを扱ってるんだ」
 過去のことには一切触れない会話。どこか欠けたまま続けるパズルのようで、なんとなく落ち着かない。
 「なんで離婚したの?」
 たぶんそれを話しに来たのだろうと、あえてこちらから質問する。過去の失敗は、人に話せば楽になる、たぶん。
 「風花が忘れられないからさ」
 昔のように名前で呼ばれ胸がぎゅっと絞られたように痛んだ。
 「というのは嘘だけど」
 鳩山はそう言って微笑んだ。「でも、ま、半分はホントかな。あながち嘘ともいいきれない」
 「いまさら口説かないでね」
 そう言いながら、ほんの少し期待してしまう自分がいる。
 「家内……いや元家内はさ、依存心の強いヤツだったんだよ。結婚前はそれがかえってかわいく思えたりしたんだけど、一緒に暮らすとなるとちょっとね、疲れる」
 「それは、わたしと比べてかわいく見えたってことね」
 少し剣を含んだ口調で言う。
 「相変わらずきついね。でも、その通り。君と婚約していたときから二股をかけていたと思っているかもしれないけれど、実は違うんだ。彼女は学生時代のサークルの後輩なんだけど、風花と出会う前に付き合っていたことがあったんだよ。一瞬だけど。そう、3年生の夏だったかな、1ヶ月くらい。で、彼女と別れて、僕はすぐに別の女の子と付き合い始めたんだけど、彼女のほうはずっと僕を好きでいてくれたんだよね。それは卒業後も続いていて、彼女が僕を想ってくれているのは痛いほど感じていた。でも、気づかない振りをしてたんだ。それが、風花と婚約して式の準備なんかでストレスが溜まっていたときに、彼女から連絡があって、ふたりで飲みに行って……。そのときの彼女の献身的な態度がなんだか新鮮だった。ほら、君って意志が強くて絶対曲げないような部分があるだろ。当時はそれに疲れていたんだよ」
 昔の肩肘を張った自分の姿をありありと思い出した。自分の描いたとおりの人生を手に入れなければ気が済まなかったあの頃のわたし。途中までは確かに思ったとおりの生き方ができていたはずなのに。
 「お子さんは?」
 「いない。幸いに……って言うべきかな」
 鳩山は顔をしかめて笑った。
 「向こうは欲しがっていたけどね。結婚生活の大半は子作りだったといっても過言ではないくらい。別に四六時中セックスしてたっていう意味じゃないよ。会話のほとんどが子どもの話題で占められていたっていうこと。彼女が話すのは、男の子が生まれたらこういう名前にしよう、女の子が生まれたらこういう服を着せよう、誰それさんの奥さんは妊娠したらしい、わたしはいつが排卵日だから早く帰るように……そんなことばっかり。実を言うとそれが嫌で僕の気持ちは冷めたんだけどね」
 「奥さん、一度も妊娠しなかったの?」
 「しなかった。彼女は病院に通っていたみたいだけど、特に問題はないって。僕も検査をするように散々言われて、逃げ回っていたんだ。結局検査はしなかった」
 わたしは、鳩山と付き合っていた期間、ずっと避妊していた。相手がわたしだったらどうだっただろう? やはり子どもはできなかったのだろうか。
 「で、風花の方はどう? 希望通り広報宣伝部に移れた?」
 ああ……。鳩山の中では時間が止まっている。
 2年前まで、わたしはしきりに広報の仕事がしたいと言っていた。そもそも就職する際の面接でも広報宣伝部への配属を希望していたのだけれど、入社後に渡された辞令には、無常にも「経営推進部」と書かれていた。
 そこでもそれなりにやりがいは感じていたし、自分で言うのもなんだが、実際にそこそこの成果を上げてはいたと思う。けれど、わたしの中にはずっと広報という仕事への情熱が潜んでいた。だから、年に2回ある人事考課のための面談の際には毎回異動の希望を口にしていたけれど、聞き入れられたことはない。それでもわたしは懲りずに、いろんな人に〈わたしの夢〉を口にしていたものだ。いつか広報の仕事をする。そして結婚しても出産しても仕事を続けて、課長、部長と昇進する……。
 しかし鳩山とのことがあってから後、わたしは憑き物が落ちたように情熱を失った。ちょうどパンパンに膨らんだ風船がはじけるように。そして、希望して現在の「安全管理部」に移ったのだ。庶務というルーティンワーク。そこにこそ、わたしの心の平穏があった。
 力なく首を振るわたしに、鳩山は「そっか」とつぶやいた。
 「君ならやれると思ったんだけどな」
 「もう無理よ。会社の景気も悪くなったし、いられるだけマシって感じだから」
 「時代が変わったんだな」
 「うん。残念ながらね」
 わたしたちは小1時間で別れた。別れ際に今の住所を訊かれたけれど、おしえなかった。携帯電話の番号さえも。
 もしかしたら、わたしたちは同じ家路についていたかもしれないんだ……。そう思ってみたものの、あまりにも現実感がなさすぎて、想像すらできなかった。所詮、わたしと鳩山は同じ人生を歩む運命ではなかったんだ。彼の後姿を振り返りながらそう思う。
 急いで帰宅すると、案の定、安西君が来ていた。
 あの夜以来、彼は毎日やって来るようになった。予備校には行かず、授業を受けるべき時間をわたしと一緒に過ごすのだ。彼にはすでに合鍵を渡していた。
 「遅かったね」
 責める風でもなく、安西君は坦々と言った。座卓の上には、彼の作った料理が並んでいる。そばには開かれたままの料理本が置かれていた。
 「おいしそ~。腕あげたね」
 わたしのために料理がしたいと言い出したのは彼だ。合鍵を渡したときに、「じゃあその代わりに」と彼が思い付いたのだ。「待っている時間がもったいないし、その間に夕食作っておくよ。そしたら風花さん、帰ったらすぐにご飯が食べられるでしょ?」。
 単純に嬉しかった。それに助かる。料理本を与え、食材を買うためのお金を週に一度渡した。最初は、焼きそばだとかラーメンなどの簡単なメニューが多かったけれど、次第に難度の高いものに手を出すようになってきた。今夜は麻婆豆腐だ。
 「モトカレに会っちゃった」
 着替えながらそう言うと、彼は勉強していた手を止めた。
 「ふうん」
 何か言いたげに口を尖らせながら、けれどまた視線を教科書に戻す。
 「妬いた?」
 ふざけた口調で訊ねるわたしをチラッと一瞥して、「別に」。そして、ゆっくりとこう言った。
 「ダメだよ、風花さん。ヒトヅマなんだから、変なこと考えちゃ」
 彼の口から発せられる「人妻」は、まるで「イナズマ」みたいに無意味に聞こえる。
 「じゃあ、こういうこともしちゃダメなのかなぁ」
 わたしは彼の背後から腕を回し、頬に「ただいま」のキスをする。
 それを機に、安西君は部屋の明かりを落とした。
 「ご飯、まだなのに」
 すねたようにわたしが言うと、
 「自分から誘ったくせに」
 と彼はすでに、今着たばかりのわたしのTシャツをたくしあげた。
 そんな風に、わたしたちは毎日楽しく暮らした。まるで大学生同士の同棲のように、自堕落に、淫らに。彼は、わたしが部屋にいるときはいつだってそこにいたから、今となってはまるでペットのようだった。言い方は悪いかもしれないけれど、わたしに忠実でよくなついているという点において、その表現はまさにピッタリだ。
 安西君を知ってから、わたしは耕介とは抱き合えなくなっていた。一度だけ試してみたけれど、いくら技術を駆使しても受け入れられないわたしを見て、耕介は「珍しいなぁ」とつぶやいた。どこかで何かを感じ取っているような声だった。その日以来、耕介はうちに来ない。奥さんとうまくやっているのだろうか。それとも別に女の子を見つけたか。どちらにしても、わたしには都合が良かった。
 わたしの部屋に少しずつ安西君の持ち物が増えていく。教科書、参考書、問題集。部屋着、雑誌、歯ブラシ、整髪料。若い男の子特有の匂いが常に部屋に漂っていて、ふとした拍子に驚いたりする。
 姉のことを知ったのは、母との会話からだった。
 仕事から帰ると、ファックスが届いていた。その数日前から携帯の留守電に何度もメッセージが入っていたのだけれど、無視していたのだ。
 「母親って、子どもがいくつになっても心配なんだね」
 その文面を見て、安西君が笑った。
 大至急、連絡しなさい。
 しなければ、会社まで行きます。 母

 そこまで書くか……と唸ってしまった。あの母なら本当に会社まで来かねない。何しろ入社式の日にビルの前までついてきたほどの人だ。うちの場合、親離れよりも子離れの心配をした方がいい。
 すぐに電話をかける。
 「なに?」
 そばに安西君がいるせいで、いつもにもまして不機嫌な口調で話してしまう。そんな自分の子どもっぽさに多少あきれはするけれど。
 「風ちゃん、知ってたの?」
 「ああ……」
 姉のことだとすぐにわかった。
 「どうしてお母さんに言ってくれなかったの」
 言えるわけないでしょう、と思いながら、わたしは黙り込む。
 「お母さん、全然知らなかったわよ。日曜日に近くまで行く用事があったからあの子の家に寄ってみたら、圭三さんが、春花はお母さんのところじゃないんですかって言うじゃない。あの子、実家に帰るって言って、1ヶ月以上も前から家を出ているんだって?」
 「そういうことになってたんだ……」
 「あなたも知らなかったの?」
 「最初の方しか。で、お姉ちゃん、仕事はどうしてるの?」
 「事務所には行ってるらしいわ。でも、どこに住んでるんだか……。うちから電話しても、あの子、出ないのよ。風ちゃんなら知ってるんじゃないかと思ったんだけど」
 「知らないよ」
 「そう……」
 そこで母は口をつぐんだ。安西君が、どうしたの? というような仕草でこちらを見る。
 「蓮花はどうしてるんだろうねぇ。お母さんにも風ちゃんにも頼らず、ひとりでやっていけてるのかしら」
 母の心配は、また、わたしの心配でもあった。

 保育所から道路を挟んで反対側の歩道に、わたしはすでに1時間以上も立っていた。
 姉は、当然ながら、わたしからの電話にも出なかった。ためしに会社からもかけてみたが、よほど用心深くなっているらしい。常に留守電モードになっていて、「こちらからかけ直します」という言葉だけが繰り返される。
 保育所が閉まる7時ギリギリになって、見慣れた軽自動車がわたしの前を通り過ぎ、30メートルほど前に停車された。中から姉が飛び出す。姉は、わたしのほうには気づきもせず、一目散に保育所を目指した。
 姉が蓮ちゃんを抱いて戻ったとき、わたしは姉の車のそばに立っていた。
 「久しぶり」
 意外にも、驚きを見せず、姉は平然と微笑んだ。「乗る?」
 無言のまま、姉は車を出した。窓外の景色は、だんだんと見慣れないものに変わっていく。
姉は、あるマンションの1階にある駐車場に車を入れた。慣れた手つきで狭いスペースに停める。
 「ここに住んでるの?」
 無言のまま、姉は車のドアを開ける。
 蓮ちゃんを抱く姉の荷物を持った。エレベーターで3階に上がる。
 玄関ドアは狭い間隔で隣り合っていて、その部屋がワンルームであることが容易にわかる。
 表札は「山崎」となっていた。
 「どうぞ」
 家具のほとんどない真新しい部屋の中で、蓮ちゃんのぬいぐるみだけが目立っていた。姉は、ムッとした部屋をまっすぐに進み、ベランダの窓を開け放つ。途端に大通りの喧騒が立ち上り、わたしは一瞬めまいを覚える。
 「……加藤さんは?」
 わたしの問いに、姉は、穴の開くほどわたしの顔を見つめ、数秒後に大きな声で笑い出した。
 「本当に疑ってたんだ?」
 目尻に涙を残したままの姉にわたしは問いかける。
 「一緒に住んでいるんじゃないの?」
 わたしは、なぜ姉が笑うのか理解できず、呆然と姉を見つめる。
 「きちんと別れたわ……なーんてね」
 姉はそう言うとフローリングの床にぺたりと座り込んだ。その隣で蓮ちゃんがぬいぐるみを相手に格闘していた。
 「そもそも付き合ってなんていなかったのよ。言い方は悪いんだけど、彼、ひとりで盛り上がってたの。たしかにわたしも孤独だったから仕事の愚痴を聞いてもらったり、携帯電話のメールでやり取りしたことはあったけれど……。それがいけなかったみたい。プライベートな部分と切り離すべきだったのよね。それで勘違いさせたのなら申し訳なかったなぁと思う。でも本当に何かあったってわけじゃなかったのよ」
 「……ホントに?」
 「ホント、ホント」
 「じゃあ、どうして家を出たの?」
 姉は、小さくため息をつくと、ゆっくりと立ち上がり、やかんに水を入れコンロにかけた。そして、冷蔵庫の中を一瞥し、「買い物する暇がなくて……お弁当の宅配でも頼もうか。ひとり分だと持ってきてくれないんだけど、ふたり分だったら大丈夫だと思う」とつぶやいた。
 携帯電話から宅配を頼んだ姉は、それを待つ間、ティーバックでほうじ茶をいれ、安物の折りたたみ机の上にマグカップを2つ置いた。
 「家を出たのはね」
 そこでお茶を一口飲む。
 「圭三さんと距離をとりたかったから」
 「どうして? 喧嘩でもしたの?」
 姉は「ううん」と首を振った。
 「喧嘩でもできればよかったかもね。でも、うちの場合、それ以前の問題なの。わたし、風ちゃんに言われて気づいたんだ。圭三さんには頭が上がらないってことに。なぜなんだろう? わたしが甘えられるのって風ちゃんだけなんだよね。お母さんにもお父さんにも弱いところは見せられない」
 姉は、ベランダの網戸の向こう側を見つめていた。毒々しいネオンサインが光り、けたたましい街の匂いが撒き散らされている。
 「わたしは……最初からお姉ちゃんの相手じゃないからだよ」
 姉は「ん?」というように首をかしげる。「どういうこと?」
 わたしは、少しためらいがちに言葉をつなぐ。
 「うちってさ、お父さんもお母さんも存在感が強烈じゃない。自己主張が強いし頑固だし。だから、それに立ち向かおうとするとものすごいパワーがいるでしょ。同じことがお義兄さんにも言えると思う。お義兄さんは、経営者としても有能だし、人をぐいぐいと引っ張っていくタイプでしょ。そういう人に何かを意見したり頼むのは、すごく難しいんだよ。でも、わたしなら、何のとりえもないし、あきらかにお姉ちゃんより劣るからさ」
 わたしの言い方はほんの少し自棄めいていたかもしれない。言葉の後ろ側に隠された小さな棘は、いつもであれば、姉の高慢ちきな自尊心を刺激し、その何倍にもなってわたしに跳ね返るはずだった。だから、わたしはその言葉を吐いた後、わずかに身構えていた。けれど、姉は、何も言わなかった。
 お弁当が届き、わたしたちは無言のままにそれを食べた。蓮ちゃんの存在がかろうじてその場の雰囲気を明るくしていた。
 「〈一生懸命〉はね、周りを疲れさせるんだよ、お姉ちゃん」
 姉が何も言わないのをいいことに、わたしは最後の一撃をくらわせた。姉は、いれかけた2杯目のお茶を持ったまま、わずかに微笑んだ。
 「うん」
 「どうして笑うの?」
 わたしは姉を睨んだ。姉は、わたしにマグカップを差し出しながら、もう一度小さく微笑んだ。
 「だって……やっぱり、って思ったから」
 「やっぱりって?」
 「わたしががむしゃらに頑張ると、風ちゃんが疲れるんでしょ。それ、最近気づいたの」
 「別に、わたしが、っていうわけじゃないけど」
 「でも、疲れるでしょ。みんなそうなのよ。わたしが頑張ると疲れる。圭三さんも、事務所の子たちも。でも、わたしがやらなければ誰がやるの? ってずっと思ってたんだよね」
 「実際そうでしょ。お姉ちゃんがやらなかったら困ること、いっぱいあるよ」
 言い過ぎたことを後ろめたく感じたわたしは、今更ながら姉を擁護するようなことを言う。
 「それはそう思う。でもね、もっと分け合ってもよかったなって思うようになったのよ。育児にしても、わたしひとりで抱え込まず、圭三さんとふたりでやればよかったって。その方が、子育てを〈苦しみ〉ではなく〈楽しみ〉としてできたと思うんだ。それに、仕事の方もね、わたしが頑張りすぎたせいで、事務所の若い子たちの可能性を奪っていたんだなぁって」
 よくわからなかった。だからといって、実際どうすればよかったというのだろう。
 「それが家を出た理由?」
 「そうといえばそうかな」
 「離婚するの?」
 「そこまでは考えてないわよ。ただ、ひとりになって考えたかったのと、ひとりで暮らしていけるかどうか試してみたかった。本当言えば、職場まで変えたいところだったけど、さすがにそういうわけにはいかないでしょ。だから、事務所にはちゃんと通ってるよ」
 「お義兄さん、なんて言ってるの?」
 「それが、なーんにも言わないの。別居してるっていうことを誰にも知られたくないみたい。事務所では平静を装ってるわ」
 「話し合いは?」
 「まだ」
 ため息が出た。義兄のポーカーフェースぶりが目に浮かぶ。
 「これからどうするの?」
 姉は背筋を正した。
 「道は2つに分かれています」
 突然、おとぎ話でも読み聞かせるような声色を出す。
 「右に行けば、このまま別々に暮らして、もしかしたら離婚して、でも事務所での仕事は続けます。左に行けば、元のさやに納まり、でも事務所は辞めます。さあ、風ちゃんならどうする?」
 「ふざけないでよ」
 「ふざけてないわよ」
 姉は、子どものような三角すわりをしたまま、顔だけをこちたに向けた。
 剣のようにとがった表情には、一点の曇りも見られない。
 「今のまま、圭三さんと結婚した状態で事務所の仕事を続けていくことはできないの。このままだと、いつまでたってもわたしたちは〈経営者と従業員〉という枷から逃れられない。家にいてもその関係性は崩せずに、結局わたしは彼の顔色を伺ったまま日常を送るんだわ」
 「じゃあ、辞めればすべてが解決するって言うの?」
 「あるいは、離婚すればね。他人に戻って、わたしは自分の仕事のことだけを考えるの。もちろん蓮華はきちんと育てるけれど、夫の世話に伴う家事から解放されるだけでも今よりマシだわ」
 「本当にそれを望んでいる?」
 「さあ……。ひとつだけわかっていることは、わたしは彼とは1種類だけのパートナー関係を築きたいってこと。仕事なら仕事の、夫婦なら夫婦としてのね」
 そう告げる姉の表情は、すでに結論を下した者のそれで、わたしは何も言えなかった。夫婦の問題は夫婦で解決するしかないのだ。
 姉の顔を見ていると、わたしはもうひとつ心に湧いて消えない疑問を口に出せなかった。
 あの日、わたしに仕事を頼んだのはなぜ?
 加藤さんと引き合わせるのが目的じゃなかったとしたら、どうして姉はわたしを呼んだのだろう。
 いつかその問いを投げかけることができたなら、わたしと姉はもう少し歩み寄れるのではないかという気がした。
                      (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-04-20 16:36 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.10

 女性社員への早期退職勧告が出されたのは、6月の初旬のことだった。
 連日の雨がはめ殺しの窓を濡らし、外はまるで海の底のようにどんよりと沈んでいた。ビルの中に閉じ込められるのは好きじゃないけれど、この時期だけは自分が屋内にいられる仕事でよかったと心から思う。
 リストラの発表は社員全員に向けてのメールで行われた。対象者は、正確に言うと「女性」ではなく、「一般事務職」となってはいたが、この会社で一般事務職といえばほとんど女性しかいない。年齢制限はなかった。
 「今辞めたら、退職金が1.5倍だって」
 女子トイレや給湯室のそこここで声を潜めた情報交換が行われる。
 女性社員には、この早期退職という制度はおおむね歓迎されているように見受けられた。ただでさえ毎日辞めたい、辞めたいと言っていた彼女たちだ。きっかけさえあれば、自信のある者は平気で飛び出していく。
 梅雨が明ける頃には、ひとり、またひとりと会社を去っていった。これを機にインテリア・コーディネーターの学校に通いだす者、これまでとは違った仕事がしたいと転職を志す者、留学する者と様々だったが、彼女たちに共通しているのは、みんな前向き派だったということだ。自分を向上させるための退職。そう言いきった者さえいた。会社に残ったのは、わたしを含めて後ろ向きの者だけだ。
 しかし、しばらく経つと辞めていった彼女達の「その後」が伝わりだした。
 「退職金、100万ちょっとしかなかったらしいよ。もうちょっとあるかと思っていたのにって泣いてたわ」
 「あの子、いまだに職安に通ってるって」
 「わたし、マクドナルドでバイトしてるの見た」
 どこまでが本当でどこまでがやっかみなのかはわからないが、少なくとも早期退職が思ったほど順調な転機ではなかったことだけはうかがえる。
 一緒にお昼ご飯を食べていた同期3人のうち2人が退職した。残されたわたしは、仕方なく、同じフロアの女性陣で集まるようになった。様々な年齢の女性たちが肩を寄せ合って食事をとるさまは、ある種哀れであったかもしれない。そのメンバーには西田さんも入っていた。
 「西田さんは何か考えてるんですか」
 わたしの右隣に座っている2年下の後輩がカレーライスをすくいながら言った。彼女は、入社以来異動したことがなく、長年ずっと同じ仕事を続けている。数年前に日本語教師になるための学校に通っていると聞いたことがあったけれど、どうなったのだろうか。
 「あら、西田さんはクビになったって食いっぱぐれる心配はないんだから、どうってことないですよね」
 そう口を挟んだのはひとつ上の先輩だ。そう言う彼女だっていまだに親元から通っている。しかも、毎日持参するお弁当はどうも母親が作っているらしい。「らしい」と言うのは、彼女がそう告白したわけではないのだけれど、通勤に1時間半もかかるにも関わらず内容が豪華なこと、さらに、いつだったかお弁当箱を開けたときに「うわっ、あたしグリーンピース嫌いなのに」とつぶやいたのをわたしが聞き逃さなかったことによる。
 わたし以外のこの3人は、大なり小なり似た者同士だ。入社以来ただなんとなく会社にいて、これといって自分を磨いてこなかった。周囲の人たちがやれ資格だ、やれ総合職転換試験だと騒いでいたときに、傍観者を決め込んでいた。
 そういうわたしだって似たようなものだ。最初のうちこそバリバリと働いていたとはいえ、途中で自ら線路を外れたのだから。その付けが、今、形になってわたしたちを襲う。
 「わたしは辞めないわ」
 ある種崇高な気配すら漂わせて、西田さんは答えた。
 「でも、ほら見て下さいよ」
 後輩が食堂を見回して言った。
 「明らかに人が減ってる。特に、ここ1ヶ月で女性の数が極端に減っちゃった。わたしの同期は5人も辞めたんですよ。なんだか自分だけ残ってるのが恥ずかしくなってしまう」
 「あたしも、あたしも」
 先輩が間髪をいれずに言う。
 「あたしの同期はついに、あたしを除いて全員辞めたわよ。もちろん女の同期だけどさ。でも来週以降、男の子も何人か辞めるみたい」
 「辞められる人はいいですよ。当てがあるってことでしょう? わたしなんて今辞めたら、転職できる自信ない」
 彼女たちが様々な愚痴を述べている間、西田さんは黙々と食事を続けていた。わたしはそんな西田さんを横目で見ながら、やはり何も言えずに定食を咀嚼し続ける。
 「ねえ、小菅さんは?」
 「そうよ、小菅さんは何か考えてるの?」
 話の矛先が急にわたしの方に向き、「え」とわたしは曖昧な笑みを浮かべる。
 「まさか結婚するとか言わないで下さいよ」
 後輩がそう言った瞬間、先輩が小さく「こら」と言った。テーブルの下で、先輩の足が後輩の足をつつくのがわかる。
 「いいんですよ、もう過去のことだから。みんなも気を遣わないで下さい」
 わたしは努めて冷静にそう言った。自分からその話題に触れたのは初めてだった。誰もが口をつぐみ、次の話題を探していた。
 わたしは、質問に答えようと、答えを探した。
 「……どうしようかなぁ。結婚の予定はないけれど、辞めたいとも続けたいとも思わない。どっちでもいいって感じかな。会社のほうから辞めてくれって言われたら辞めるけど」
 素直な気持ちだった。そう、わたしはどっちでもよかった。誰かがわたしの将来を決めてくれればいいとさえ思っていた。
 「他力本願ね」
 そう言ったのは西田さんだ。
 「甘えてると思うわ」
 一瞬、空虚な間があった。誰もが顔を見合わせ、西田さんが今にも「冗談よ」と言い出すのを待っている。けれど彼女の口からはそれ以上の言葉はなかった。
 先輩と後輩が顔色を変えて、「いやーん、西田さん、きつーい」とその場を笑いでごまかそうとした。
 「傷ついたのならごめん。でも、以前のわたしを見てるようで、言わずにはいられないのよ。わたしも確かに以前はそう思ってた。家にいても暇だから会社に行こう、会社に行けばお金にもなるしって。でも、今はそう言っていられないご時世じゃない。会社にとって利益を生まない社員は必要ない。無用な社員を抱えていられるほど、うちの会社には体力がない。だったら、利益を生む存在にならなくちゃ」
 「でも……それが難しいんじゃないですか。みんな誰だってお荷物になんてなりたくないですよ。でも、営業ならともかく本社では利益を生むことってありえないじゃないですか」
 わたしの反論は言い訳じみていたかもしれない。
 西田さんは手綱を緩めることなく続けた。
 「あら、そうかしら? 本当にそう? 会社に残ったものにしかできないこともあるってことはないかしら」
 何がある? この会社で、わたしにできること。
 「会社は少数精鋭にしたがってる。このまましばらくは退職する人が後を絶たないでしょう。でも、ある程度人数が減ったら、それも落ち着くわ。……そのときがチャンスよ」
 「チャンス?」
 「そう、チャンス」
 西田さんは澄ました顔でそう言うと「お先」とトレーを持って席を立った。
 会社を辞める、あるいは辞めさせられる。現実にそうなった場合、もうひとり暮らしは続けられないのかなぁと漠然と思った。そうなればやはり実家に戻ることになるのだろうか。家を出て以来、両親とは距離を置いている。いまさら一緒に住めるだろうか。
 入社してからの8年間で貯めたお金は約600万円。大卒女子の平均貯蓄額としては多いのか少ないのかわからない。たぶん少ないほうだと思う。鳩山との婚約の際の式場や新婚旅行のキャンセル料、それに揃えてしまった家具代などは、破談の際にすべて先方が支払った。けれど、もらった慰謝料はそっくりそのまま両親に渡したし、その後ひとり暮らしをしたせいで貯蓄のペースは鈍っている。
 もしクビになった場合、すぐに職が見つかるとは思えないし、貯金を取り崩して生活するとなると、今のままのひとり暮らしではそう長くはもたないだろう。
 そう概算するとなんだかうんざりして、エレベーターの中でもわたしは無言のままだった。
 オフィスに戻り、午後一番のメールをチェックする。わたしより5年入社の遅い顔見知りの子が結婚退職する旨の挨拶メールを送ってくれていた。フロアが違うので会うことはほとんどないが、わたしの同期の直属の後輩だったため会えば挨拶する程度の付き合いだ。他には、人事部からの公募のお知らせ、そしてt-hatoyama@……というアドレスからの「お久しぶり」というタイトルのメール。
 お久しぶりです。お元気ですか。
 いまさら連絡をするのもどうかと思ったのだけれど、同期だったヤツから最近早期退職者が増えたと聞き、小菅さんも辞めてしまうかもしれないと思ったらじっとしていられなくなりました。いま僕が君に連絡できる手段は君のこの会社のアドレスだけだから、君が辞めてしまったら二度と連絡できなくなる。もし気に障るようなら削除してください。

 そういう文章で始まるメールは、延々と画面2つ分くらい続いていた。
 わたしと別れた後、彼が結婚したこと。その相手の父親が経営する会社に幹部候補として入ったけれど、古くからいる社員とそりが合わず辞めてしまったこと。それがきっかけで夫婦仲が悪くなり、結局は離婚してしまったことなど、時系列もバラバラにとりとめもなく書かれていた。
 もしよかったら一度会ってもらえませんか。もう一度やり直そうとかそういうわけではありません(もちろんその可能性は否定しないけど)。別れ方があまりにも後味の悪いものだったので、自分でもずっと気になっていたんです。一度会ったくらいでそれを拭えるとは思わないけれど、少なくとも多少は緩和できるかもしれない。僕にそのチャンスをください。
 別人じゃないかと思った。彼の名前を語って、誰か他の人がいたずらで送ってきたのじゃないかと。なぜならこのメールはあまりにも多弁すぎた。2年前の彼は、意思すら持たないのではないかと思えるほど何も語らなかったのに。
 わたしは返信することなく画面をにらみつづけた。そして、彼のメールを閉じると、人事部からのメールだけを印字してカバンに入れた。

 その夜、いつものように安西君がやってきた。
 あの夜から、彼は二度とわたしに愛を語ることはなかった。以前と同じようにふらっとやってきては、本を読みビデオを観る。時にはわたしの作った料理を食べ、時にはお茶だけで帰る。
 変わったことといえば、時折おみやげを持参するようになったことくらいだ。とはいっても、缶ジュースを2缶とかドーナツを1個(!)とか、他愛ないものだけれど。「バイトしてないんでしょ。気を遣わなくていいよ」。わたしがそう言っても、必ずと言っていいほど何かを持ってくる。うちには、ゲーセンのユーフォーキャッチャーでゲットされたぬいぐるみだとかお菓子などが溜まっていく。
 「……ねえってば」
 テレビを観るともなしに眺めていたら、安西君が耳元でわたしを呼んでいた。
 「ああ……何?」
 「風花さん、さっきから変だよ。何度も呼んでるのに生返事ばっかり」
 「そう? ごめん」
 そう応じながら、わたしの頭の中は「もし会社を辞めたら」ということでいっぱいだった。それと、「もし鳩山と結婚していたら」という夢想。今頃わたしは、幸せな奥さんになっていたのだろうか。失業の不安を感じることもなく、先の見えない日々を恐れることもなく。それとも、主婦であってもやはり、同じように虚無感を抱いて暮らしていたのだろうか。わたしがわたしである限り、この性癖は消えないのだろうか。
 専業主婦である自分は、意外にも想像できなかった。あわただしく朝食をかきこむこともなく、観たい番組をゆっくりと観られ、眠りたいときに眠り、食べたいときに食べる。ある意味、もっとも人間らしい生活だろうけれど、どうしてだか魅力を感じない。なぜ? まるで飼いならされた猫の日常を垣間見たときのように、わたしの心はわさわさと粟立つ。
 キッチンのシンク脇に活けた花が、ガラスの小瓶の中で小さく揺れた。薄桃色の花びらと緑の葉。ほんの少しの「自然」が、わたしを癒してくれる。
 安西君は、本棚に並べているアルバムを指差した。
 「これ見てもいい?」
 それはポケットアルバムが5冊ずつ箱に収められたもので、全部で3箱あった。実家にはもっとたくさんあるのだけれど、最近のものだけを手元に置いている。
 「いいよ」
 そう答えてから、去年友達と行った温泉旅行の写真の中には、露天風呂でふざけて撮ったものもあったことを思い出し、「ちょっと待った」とあわてて数枚抜き取る。
 「なんだよぉ、何隠したんだよぉ」
 安西君が抜き取った写真を奪いに来るが、わたしはベッドの上に立ち上がって写真を持つ手を高く上げる。子どもの頃ベッドに乗っては揺らして叱られたときのように、立ったまま両足を屈伸させバウンドさせると、後からベッドに飛び乗った安西君は、揺られてバランスを崩し、手を伸ばしたままの格好でその場に崩れた。
 「へへんだ。そう簡単に取られてたまるかい」
 揺れを継続させたまま、上から見下ろしてそう言った。安西君は悔しそうにわたしを見上げる。
 「くそぉ」
 倒れた姿勢のまま、彼の手がわたしの両足首をつかんだ。屈伸途中のひざは行き場をなくし、わたしはしりもちをついてしまう。
 視線が絡みついた。ふたりとも、ベッドの上で。
 わたしは、あわてて視線を逸らそうと努める。けれどできない。まるで磁力でもあるかのように引き合うまなざしは、音もなくその距離を狭めていく。
 彼の手は、今なおわたしの両足首をつかんでいた。その手はジーンズの上をゆっくりと這いながら少しずつ位置を変え、いつのまにか腿の上にたどり着く。
 歌番組の司会者が何か言ったのか、テレビからはたくさんの笑い声が聞こえていた。その空々しい歓声は、むしろ音楽のようにこの部屋を覆っている。
 口づけたのはわたし。
 至近距離まで近づいた彼の、唇を唇で挟んだ。声にならない吐息が彼の口から漏れて、それをふさごうとわたしは舌を差し入れる。舌で舌を愛撫し、上唇を濡らし、下唇を噛んだ。口角の右端を舐め、左端を吸う。
 何かに弾かれたように安西君がわたしを押し倒した。その力は想像していたよりも強く、たじろいだわたしは一瞬彼を押し戻そうとする。
 安西君の唇が首筋を這う。震える指先でシャツのボタンをはずす。はだけた胸元の小さな谷間に顔をうずめ、指先をブラジャーの中に挿しいれる。
 彼が初めてだということはすぐにわかった。その息遣いや押し殺した吐息、かすれたうめき声がそれを物語っていた。
 形から見れば、紛れもなくわたしは安西君に襲われていた。しかし、わたしが彼を犯しているのだと思った。この穢れた心で。この弱った精神で。
 彼と向き合うには年をとりすぎていることに気づいたわたしは、ほんの一瞬彼を制して部屋の明かりを消す。そしてテレビの電源を切る。
 導くようにして彼の服を脱がせた。すべらかな肌は、まるで彫刻で見る少年のそれのようだ。肩に口づけたら、なぜかケチャップの匂いがした。
 汗のにおいが部屋中に充満し、窒息しそうになる。その中に一筋の甘い香り。
 外から聞こえるサイレンの音と、わたしたちのたてるきぬずれの音。それ以外はすべて排除された沈黙の世界のなかで、それなのにわたしたちはとても饒舌に語り合っている。
 いとおしかった。
 彼の髪に指を挿しいれ、わたしは狂ったように体をのけぞらせた。
 すぐに果ててしまった彼を強く抱きしめながら、わたしはじっと天井を見上げる。
 欲しかったものがなんなのか、今はっきりわかった。不安や憂鬱や杞憂よりも、勝ってしまった気持ちがある。
 「好きだよ」
 いつの間にか涙を流していたわたしの頬に、安西君がやさしく口づけた。その瞳の中は1点の曇りもなく、まっすぐにわたしを捉えていた。
 「わたしも」
 その言葉をきっかけに、わたしたちはまた抱き合った。窓の外が明るくなるまで、何度も、何度も。
                        (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-04-19 14:04 | 長編1

ひとりきりたたずんでわたしはそして風になる Vol.9

 よかったら今からお茶しない?
 メールがパソコンに表示され、隣の部署を振り返ると、西田さんが微笑みながら手を振っていた。
 3時過ぎの給湯室は女子社員であふれている。一足早く着いたわたしは、入り口でたじろいでしまう。
 「お待たせ」
 手に小さな紙袋を持った西田さんが姿を見せると、それまで給湯室でたむろしていた人々が一斉に後片付けを始めだした。
 「あら、いいのよ。みんな、ゆっくりしていって」
 西田さんが優雅な笑みを浮かべたけれど、彼女たちは「もうすぐ打ち合わせがあるので」「わたしは急ぎのワープロが……」などと口々に言いながら、湯飲みを洗い終え退室していった。それほど西田さんには威圧感がある。
 「貸切になっちゃったわね」
 西田さんは、持って来た紙袋からフルーツケーキを2切れ取り出した。
 「近所に新しくできたケーキ屋さんで買ってきたの。よかったらどうぞ」
 「いつもすみません」
 わたしは、お茶を淹れようと、会社の経費で常備してある玄米茶の缶に手をかけた。すると、西田さんが「こっち使って」と、自前のフォートナム・アンド・メイソンの紅茶缶を手渡した。
 「ねえ、知ってる? 研修部の荒本部長、早期退職するんですって」
 「え、ホントですか?」
 荒本部長というのは、うちの会社の中で最も高い役職についている女性だった。わたしが会社に入ったときすでに課長職に就いていて、新入社員研修では講師をしていた。たしか60歳の定年まであと数年のはずだ。
 「どうしてなんでしょう?」
 「さあ。噂だけど、どこかの女子短大の非常勤講師をやるらしいわよ。長年研修部にいて、人を教えることには長けているから。あ、そういえば、この間辞めた、ほら鳩山さんの上司だった部長ね、この秋から留学するらしいわよ。どこだっけな、オックスフォードかケンブリッジか、どっちかだったと思う」
 西田さんは、なんのためらいもなく鳩山の名前を口にした。
 わたしは、紅茶をそれぞれのマイカップに注ぎ、「いただきます」とケーキをほおばる。
 「そういえば」
 口の中でもぞもぞとするケーキを流し込むため、紅茶を一口飲んだ。
 「鳩山さん、離婚したって聞きました。西田さんはご存知でした?」
 「ええ、もちろん」
 西田さんは間髪いれずにそう言った。
 「あら小菅さん、知らなかったの? てっきり知ってるんだとばっかり思ってた」
 「いいえ、全然」
 「そう。ってことは、彼から連絡はないわけだ」
 「もちろんですよ。あるわけないじゃないですか」
 「わかんないわよぉ。男って、別れた女のことはずっと忘れられないらしいから」
 わたしは、給湯室の全面ガラス張りの窓から外を眺めた。眼下には児童公園があり、ベビーカーを押した母親たちが集っている。
 「西田さんは、お子さんをほしいとは思わないんですか」
 「お子さん? ああ……子どもね」
 日当たりのよい砂場で、男の子がひとり泣いていた。母親らしき人物が駆け寄り、しゃがみこんでなだめている。声はまったく聞こえないけれど、まるで音声の出ないテレビのように、人々はリアルに動いている。
 「わたし、子どもはできないの」
 西田さんは大きく口を開けて最後の1口を放り込んだ。
 「わたし、20代の初めに子宮筋腫を患って、子宮とっちゃったから」
 息を呑んだ。心臓がバクバク音を立てはじめた。
 「……ごめんなさい、知らなくて」
 西田さんは聖母のような微笑みでわたしを見た。これまでで一番あたたかな視線だった。
 「いいのよ。この話、あんまりしたことないから、社内でも知ってる人は少ないしね。結婚するときにだんなには話してあるし、お互い理解しあった上で一緒に暮らしてるんだから、何も問題はないのよ」
 いつも能天気に暮らしていると思っていた西田さんにそんな秘密があっただなんて。わたしは頭をガツンと殴られたような気がした。時々わたしは、人を軽く見すぎてしまう。
 「西田さん」
 わたしはカップを両手で挟み持ちながら言った。
 「これまでにだんなさん以外で好きになった人っています? あの、結婚後にっていう意味ですけど」
 「なあに、突然」
 廊下を誰かが通る足音が聞こえた。西田さんは給湯室のドアを閉めた。
 「小菅さん、結婚でもするの?」
 「とんでもない! わたしの話じゃないですよ。ただ姉が……姉がもしかしたら不倫をしているかもしれないと思って」
 「どうしてそう思うの?」
 「ただ……なんとなく」
 おとといあったことは話せないと思った。たとえ西田さんの秘密を知った直後だとしても。
 「お姉さんってご結婚されてるのよね。お子さんがいるものね。わたし自身はまだ結婚して3年だし、うちは子どももいないし、他の人に目がいくってことはないけど、お友達ではいるわよ。結婚して、子どもができて、それから恋をしちゃう人」
 「どうしてなんでしょう? なんで夫がいるのに他の人に恋しちゃうのかしら?」
 「ねえ、小菅さん。男の人の浮気ってどう思う? 奥さんがいるのに他の女性と恋愛関係におちいっちゃう人って結構いるでしょう?」
 ドキッとした。まるで耕介のことを指しているようだ。もしかして西田さんはわたしのことを知っているんじゃないだろうか。
 「……男の人は……よくありますよね。だから特別不思議には思いませんけど」
 「同じじゃないかしら」
 「え?」
 「同じじゃないかと思うのよ。男の浮気も女の浮気も。結婚したときには、一生愛し合います、って宣誓するけど、その後の何十年も同じ人を好きでいることってすごく難しいと思う。たとえ好きでいられても、他に好きな人をつくらずにいるというのは不可能に近いはず。不倫まではいかなくても、たとえば、好きな俳優とかタレントとかが現れるとするじゃない? 手の届かない人なら遠くから見つめてるだけでいいけど、手の届く範囲でそういった人が現れて、しかも相手も自分を好いてくれたとしたら……どう? それでも自分の気持ちに正直にならずにいられる?」
 西田さんは……西田さんはもしかしたら過去に不倫をしていたことがあるのかもしれないと思った。彼女が結婚する前に、結婚している男性と。
 ありえない話じゃない。彼女が結婚したのは36歳のときだ。それまで恋愛経験がなかったはずがないし、30歳を超えての恋愛で相手が未婚者である確率はきわめて低い。
 「わたしは、不倫もありだと思うな」
 西田さんはカップを流しに置きながら言った。
 「もちろん自分のだんなにされたら嫌だし、わたし自身もするつもりはないけどね」
 洗うのを代わろうとしたら、お茶を淹れてくれたからこれはわたしが、と、西田さんはわたしのカップも洗ってくれた。
 「30過ぎての恋愛について悩んでるのなら、お勧めは、年下の男の子よ」
 不敵な笑みを浮かべながら、西田さんは「じゃあねぇ」と手をひらひらと振り給湯室を出て行った。

 姉がいなくなったという連絡が届いたのは、姉と言い争いをしてから1週間後の日曜日の午後のことだった。
 珍しく義兄から連絡が入ったとき、最初わたしは、性懲りもなく仕事の依頼ではないかと期待した。しかし、その期待は一瞬にして砕かれた。
 「春花、行ってない?」
 いきなり話し始めた義兄の声は、心なしか上ずっていた。
 「ううん。お姉ちゃん、いないの?」
 「実は、昨日から帰っていないんだ。携帯も通じない」
 まさか、と思った。姉が無断で外泊するなんて。
 「蓮ちゃんは?」
 「一緒にいなくなった。昨日の夕方、春花が保育所に迎えに行って、そのまま……」
 初めて聞く義兄の心もとない声に、わたしまで不安な気持ちになる。
 「車は? お姉ちゃんの車はある?」
 姉は、義兄のフォルクスワーゲンとは別に、自分専用の軽自動車を持っている。
 「ない」
 「明日まで待ってみたら?」
 意識的に明るい声で言う。
 「まさか仕事を休むってことはないだろうし、きっと今日のうちには戻ってくるよ。実家の方には連絡した?」
 「いや」
 義兄はつぶやくように答える。
 「じゃあ、わたしの方からそれとなく訊いてみる。いたら連絡するね」
 義兄との電話を切った後、わたしは久しぶりに実家に電話をかけた。こちらからかけるのは何ヶ月ぶりだろう。
 「あら珍しい」
 開口一番、母はそう言った。
 「風ちゃんから連絡くれるなんてね。雨降らないかしら。ねえ、ちゃんと食べてるの? たまには帰ってきなさいよ」
 ここまではいつもと同じセリフ。
 しばらく母の愚痴や近所の噂話に付き合った後、それとなく姉について尋ねる。
 「最近、お姉ちゃんに会った?」
 「そうねえ、先々週の日曜日だったかしら、ちょっとだけうちに来たわ。相変わらず慌しくて、ものの一時間で帰っていったけど。蓮ちゃんは大きくなったわね。あなたの方がよく会ってるから知ってると思うけど。時々預かってるんでしょう? うちに預けりゃいいものを、なぜだか母親には遠慮するのよね。昔からそうだったわ、春花は。親の手をわずらわせないことこそ自立だと思ってるのよ。孫の世話くらいさせてくれたっていいのに」
 母の言葉に嘘はなさそうだった。姉は実家にはいない。
 わたしは延々と続く母の愚痴を適当なところで止めて電話を切った。
 翌日の昼休み、わたしは義兄の携帯電話に連絡を取った。義兄は、姉は会社を休んでいると言う。
 「自分でお義兄さんに連絡してきたの?」
 「いや。朝、事務所に連絡してきたらしい。蓮花の具合が悪いから、しばらく休むって」
 昨日よりか義兄の声は安定していた。姉の不在に慣れたのだろうか。
 「誰が……誰がその電話を受けたんだろう」
 思わずつぶやいた言葉に、義兄は「ん?」と聞き返した。
 「お義兄さんは誰からそれを聞いたの?」
 「事務所の若いヤツだけど?」
 「……加藤さん?」
 「うん。……ああ、風花ちゃん、会ったことあるんだよね。俺は今日は朝イチから他社で打ち合わせで、まだ事務所には行ってないからよくわからないんだけど、加藤が電話を受けたらしい」
厭な予感が背筋を這い上がった。
 「ホント、参るよ。春花が担当している仕事の打ち合わせ、少なくとも数日分キャンセルしなきゃならん。今週は締め切りもあるのに、いつ戻ってくるかもわからないし」
 義兄との電話を切った後、わたしは、蓮ちゃんの通う保育所に電話をかけてみた。
 「蓮ちゃん? ええ、来てますよ」
 電話に出た保育士が明るい声でそう告げる。
 「ああ、そうですか。それならいいんです」
 あたふたと電話を切ろうとするわたしに、保育士が「何か?」と不審そうに尋ねる。
 「いえ……、あの、姉から蓮花の具合が悪いって聞いていたものですから、休んでるのかなぁと思って。もし休ませずに保育所に行かせているのなら、わたしが早めに迎えにいってあげる方がいいのかもしれないと思って……姉は忙しい人ですから」
 とっさに考えた言い訳はどこか不自然だったが、保育士は一応納得したようだった。
 「蓮ちゃんのお母さんからは何も聞いていませんけど、蓮ちゃん、とっても元気ですよ。特に、早く迎えに来ていただく必要はないと思います」
 その日一日、わたしの頭の中は、まるで古い型の計算機のようにカタカタと鳴りっぱなしだった。
 姉が蓮ちゃんをつれて家を出た。事務所にも行っていない。蓮ちゃんはいつも通り保育所に通っている。……それって、どういうこと?
 もっとも想像したくない結論に達してしまう。
 もしかして加藤さんと一緒に暮らし始めている……?
 もしそうだとしたら、大変なことだった。今のところ加藤さんはいつもどおり出社しているようだけれど、いつかはばれる。そうなれば、姉も加藤さんも職を失うことになる。何より、義兄がどう出るか。あの人が心底怒ったときのことを考えると、真剣に恐怖を感じる。姉を刺したって不思議ではない。
 そこまで考えると、わたしの気持ちは急速に萎えてしまった。
 もう姉に振り回されるのはゴメンだ。姉が別居しようが、仕事を辞めようが、わたしには関係ない。あとは夫婦の問題だ。
 わたしは、一度はかけようとして表示した姉の携帯電話の番号を画面から消した。

                           (つづく)
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# by kimura-ian | 2006-04-15 14:55 | 長編1